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 奇妙な友人がいる。
 奇妙な経緯で知り合い友情を築いたその友人は、やはり性格も奇妙で立ち居振る舞いも奇妙だ。
 たとえばいつも好奇心に目を輝かせているし、ことあるごとに懐から和綴じの本を取り出しては何かを書き付けたりしている。何を書いているのかと問うても、楽しげに笑うばかりで答えは返ってこない。
 まあ、それはそれでそういう奴なのだから仕方ないと、そう思える関係を築けていたと思っていたし、事実そうだった。



けれど、すべてはお伽噺の向こう側に消える。



御伽創話



 廃墟となった洋館にひそむ少女の霊。夜な夜な起こる怪奇現象に、探偵が調査に入った。はじめ探偵は美しい少女に心を奪われるが、それが生きているものでないと気付き命からがら逃げ出す。そして洋館は今日も忍び込む者を待っている。
 その本を手に入れた時、友人の顔が頭をよぎった。
 なんてことはない、ただの怪奇小説だ。
 同居人の影響かはたまた本人の資質か、妖怪だの怪奇だのといった内容を見かけると、つい引かれてしまう。それが事実でもあからさまな法螺話でも創作でも、だ。
 おかげで知り合いの編集者から、その手の話を書かされるようになってしまった。自分で書くのは好きではない。
 否応なしに、身近な人間の顔が浮かんでしまうから。
 大きく溜息をついて、頭に浮かんだ顔をかき消す。こういう場面で思い出したくない顔だった。
 彼らが人間ではないだろうということを、出来れば意識することなく生きていきたい。
 それもまた、身勝手な考えなのかもしれないが。
 結局その本の他にも数冊買い込んでしまい、家に帰ったら同居人に呆れた視線をよこされた。枕元に積まれた本の山を減らしたいのは良昭も同じなのだが、それ以上に欲しい本が出版されてしまうのだから仕方がない。
 それに今なら良昭が読まずとも、本の山を崩してくれる男がいる。
 もしかしたらそれが気に入らないのかもしれない。そこは良昭の都合を優先させることにした。
 相手があの男でふさわしいのかはともかく、家族以外の相手ともっと関わりを持つべきなのだ。
 行灯の明かりを頼りに、本の山を崩しては戻す。
 さすがに枕元の惨状に危機感を覚えたので、少しは整理をしようと思ったのだが、先刻から少しもはかどった気がしない。うっかり頁をめくってしまい中途半端に読み進めては我に返って作業に戻るという、子供みたいなことを繰り返していた。
 整理をするより、真剣に読み進めて積んだ本を減らす方に時間を使えば良かったのかもしれない。自分にたいして溜息が零れた時、部屋の隅で柘榴が立ち上がる気配がした。
「どうした?」
 こんな夜に柘榴が動くなんて珍しい。
「面倒な奴が来そうだ」
「は?」
 それだけ言い残して、柘榴はすたすたと部屋を出て行く。足音が何の躊躇いもなく階下に消えていった。
「え、おい、柘榴?」
 反射的に追いかけようとして、抱えていた本が落ちる。積んだままの本を蹴り飛ばして、雪崩れように崩れていった。
「くそ、柘榴!」
 叫んでも柘榴が戻ってくる様子はない。
 本を振り払って走り出そうとした時、勢いよく窓が開け放たれた。
「よう、良昭」
 夜風とともに滑り込むようにして、男が部屋の中に上がり込んでくる。ご丁寧に草履は手に持っていた。
「お、とぎ……!?」
 驚きすぎて口がうまく回らない。ぱくぱくと金魚のように口だけが動いて、ようやく名前を言えた。
「うわ、酷いことになってるな。何かあったのか?」
 言葉も出ない良昭をよそに、乙木は楽しげに喋る。
 好奇心を隠さない表情はいつも通りだが、それ以上にからかいが見えたような気がした。
「あいつも大概だけど、良昭も幼なじみ離れが出来てないよな。ちょっと居なくなっただけでその慌てようだ」
「なっ……お前、見てたのか!」
 足下の惨状を指差されて良昭の顔に血が上る。
「見てたっていうか、だからあいつが出て行ったんだろ?」
「何言って――」
 面倒な奴が来そうだ、と言った柘榴の顔を思い出した。
「……だいぶ露骨になってきたな」
 柘榴が他人に対してこんなわかりやすい反応をしたことが新鮮だった。
 結構な頻度で遊びに来るようになった乙木に対して、どうやらあまり良い感情を持っていないらしい。だからといって、現れるのを事前に察知して席を外すという対応はどうかと思うが。
「まったくなあ。良昭からも、もう少し俺と歩み寄るよう言ってくれよ」
「それは無理だな」
 散らばった本を拾いながら良昭が冷淡に返す。
 なんで、と乙木が大げさな声を上げた。
「あいつの感情を制限することはしたくないんだ。大人しく嫌われるか、好かれる努力をしてくれ」
 分類も何も考えずにとにかく崩れた本を積んでいく。これでますます先刻までの苦労が水の泡だ。
 そのうちの一冊を拾い上げて、乙木が肩をすくめた。
「世話焼き」
「だから、そんなことを言うのはお前くらいだ」
 拾った本を良昭が積んだ山の上に乗せる。
 その顔には珍しく苦笑が浮かんでいた。
「そうだ。何か読みたい本があったら持って行っていいぞ」
「いいのか?」
「もちろん返してもらうさ。とりあえず山を減らしたい。協力しろ」
 次々に積み上げられる本を見て、乙木が眉をひそめた。
「……それは、解決になるのか?」
 気休めだ。

 夜も更け、気がつけば行灯を囲って本を読みふけっていた頃、階段を上ってくる足音が聞こえた。
「まだいたのか」
 戸を開けるなり柘榴がいやそうに呟く。来訪を予見したぐらいだ、帰っていないことなどはじめからわかっていただろう。
「ああ、邪魔してる」
 本から顔を上げずに乙木が答える。
 柘榴の目が据わり、文句の一つや二つでも言うかに見えたが、良昭の予想に反してそのまま寝床を用意し始めた。
「寝るのか?」
「そのまま寝られたら困る」
「今日はちゃんと用意するつもりだったぞ!」
 咄嗟に言い返しても胡乱げな目で見られるだけだった。
 過去に幾度も眠気の限界まで本を読み続け、畳の上で寝付いてしまった前科があるので、強く言い返せない。ともかく手伝おうと本を閉じようとしたら、手の動きだけで制された。とっとと読んでとっとと本の山を片付けろとでも思っていそうだ。
「お前も、そのまま寝たりするな。迷惑だ」
 視線もよこさず手も止めず、柘榴が言う。
 思わず乙木の顔を伺うと、彼も良昭を見ていた。一瞬だけ小さく微笑んで見せて、視線を柘榴に戻す。
「安心しろって、もう少ししたら帰るから」
「まだ居る気か」
 じろりと柘榴が乙木を睨む。
「続きが気になるんだよ」
 柘榴をからかうのが楽しいのか、乙木は手に持った本をひらひらと見せつける。
 ひくりと柘榴の頬が引きつった。
 その顔が、ものすごい勢いで良昭の方を向く。
 滅多に見られない柘榴の表情を楽しんでいた良昭は、驚いて持っていた本を取りこぼしそうになった。
「貸してやれ。それでいいだろう」
 ものすごく嫌そうに柘榴が言う。
「……いや、それは」
 既にそういう話になっていたんだが、と言ったら怒るだろうか。見てみたいような気もするし、良昭も一緒になってからかっていたと思われるのは心外だ。
「もう借りていいって許可はもらってるんだな、これが」
「――だったら今すぐ持って帰れ!」
 柘榴が、叫んだ。
 あんぐりと口を開けて良昭が固まる。その間も、柘榴と乙木の口論は終わることがない。楽しそうに笑いながら柘榴を言いくるめる乙木に、ひたすら帰れと詰め寄る柘榴。
 止めに入った方がいいのだろうか。
 制止の声を出そうとしたところで、不意に何かの本で読んだ言葉を思い出した。
 好意の対義語は嫌悪ではない。無関心である。
 むくりと、良昭の中の好奇心が頭をもたげる。
「お、おい……二人とも」
「どうした、良昭?」
 先に反応したのは乙木だった。柘榴は激高していたのが気まずいらしく視線をそらしている。
「あー、その、ちょっと厠に行ってくるから、まあ……仲良くな?」
「は?」
 何を言い出すんだと柘榴が顔に書いた。
 乙木は面白いものを見るように笑っている。
 言い訳の杜撰さに情けなさが込み上げてくるが、言ってしまった以上は仕方ない。じゃ、と言い残してそそくさと部屋を出る。足早に階段を下りて庭に降りた。
 何ともなしにそのまま庭を歩いて、離れを振り返った。
 月の光に照られて、枯れた柘榴が寄り添うように伸びている。落雷で半分近い枝が折れてしまった、柘榴の残骸。
 その花を咲かせる日は、もう永遠に来ない。
 あの(ひと)は逝ってしまった。
 幼い頃からずっと不安だった。柘榴がいつかあるべき場所に帰ってしまうのではないかと。
 その場所は、あの日、確かに柘榴から失われてしまったけれど。
「……でもお前には、そういう道もあるんだよな」
 良昭は知ってしまった。
 人形のようだった柘榴が長い時間をかけて笑えるようになったこと。
 柘榴の母が人ではないということ。
 そして、おそらく乙木もまた、人ではないということを。
 彼と深く関わることで、柘榴が変わってしまうのかはわからない。これから先も共に生きていきたいと願うなら、乙木を遠ざけるべきだったのかもしれない。
「俺は卑怯なんだ」
 誰に促されても、柘榴は決して離れたりはしないと確信している。別々に生きるなんて道は耐え難いし、柘榴が望んでいないことも知っている。
 だが、それは本当に柘榴のためになるのか。
 良昭の願いは身勝手で、在るべきものの姿を悪戯に歪めているだけではないのか。
 そうは思っても、自ら柘榴に告げるのは恐ろしかった。二つに一つの道を選べと、選択を迫ることも出来そうにない。
 だから、乙木にそれをさせようとしている。
 自分以外の人ではないもの関わることで、柘榴が自分の居場所について考えてくれればいい。それが正しいことなら、この家を離れることを考えてくれればいい。
 それでも、もしもいつかその日が来たら、良昭は縋るだろう。
 赤い花の舞う中で必死に願ったように、それがどれほど見苦しく身勝手で愚かかを理解していても。
 重い溜息が口をついた。
 厠に行くと行って良かった。冷水で顔でも洗って、頭を冷やしてこよう。
 最後に一度だけ離れを振り向くと、良昭は母屋へと入っていった。

 その時、足音を忍ばせて階段を上ったのは、ただの気まぐれだった。
 良昭のいない間、どんな風に二人が過ごしていたか興味が沸いた。柘榴は勘がいいから、どうせ気付かれるだろうと思っていたのに、思いの外あっさりと階段を上りきってしまった。
 戸の向こうからは、ぼそぼそと話し声が聞こえる。
 言い争っている様子はない。
 ひそかに胸をなで下ろし、戸を開けようとした時だった。
「なあ、お前は柘榴なんだろう?」
 乙木の声が良昭の動きを止める。
「今さら何を」
 不機嫌そうな声が扉越しに届く。
「名前じゃなくて。存在」
 御伽が聞きたいことを理解して、良昭の背筋が凍った。
 柘榴が人ではないかもしれない。そのことはわかっているし、わかった上でともに生きていけていると思っていた。
 それでも、ならば柘榴が何なのかという疑問は、意識して持たないようにしていた。その答えを知ることで、あるいは求めることで、柘榴の存在が揺らぐことが恐ろしかった。
「あー……別にそれが聞きたかったんじゃなくて」
 取り繕うように乙木が言った。
 扉越しに良昭の感情を察したわけではないだろう。柘榴も、強張った表情をしていたのだ。
「お前が柘榴なら、俺は変葉木(へんようぼく)だなと思ってな」
「変葉木?」
 柘榴が問い返す。
「ああ。葉の色が変わるからそう呼ばれてる。日が当たるほど鮮やかな色になるんだとさ」
 どんな思いで乙木が言っているのか、良昭には見当もつかない。柘榴ならわかるのだろうか。わかり合えるのだろうか。
 日を浴び、色を変える葉。
 その様を良昭の脳裏は描き出していた。
 妖艶な、揺らめき。
「お前、ずっとここに居るつもりなのか?」
 長いようで短い沈黙のあと、乙木がぽつりと問いかけた。
「……どういう意味だ」
 かすかに響いてくる柘榴の声には、奇妙な焦燥感が滲んでいる。
「そのままの意味さ」
 乙木は対照的にあっけらかんとしていた。
 いつもなら好意を持って受け止められるその声音に、不安を煽られたのははじめてだった。
「いつか選ぶ時が来るぞ。捨てれるのか、良昭を」
 ガン、と。
 衝撃が走った。
 乙木が代わりに、とついさっきも望んだばかりだというのに、実際に直面するとこんなにも弱い。
 柘榴は答えない。
 どんな顔で乙木を見ているのだろうか。
 かつての無表情が浮かぶ。
 何の意志も読み取れない硝子玉のような目に、青白い肌。あれは人ではないよ、と耳元で囁いた誰かの声。あの頃と同じ顔をしているのだろうか。
 いやな予感を良昭に伝える時の、不安そうな顔が浮かぶ。良昭の母が倒れた時に、そばを離れようとしなかった、あの時の横顔が浮かぶ。
 心臓の鼓動が痛いくらいに胸の内で暴れていた。
「……捨てるさ」
 ぽつりと、呟いた。
 いつもと同じような平坦な声。戸を隔てて伝わってくるかすかな音では、そこに押し込められた感情の揺らぎまで聞き取れない。
 無意識のうちに、胸元をきつく握っていた。
 締め付けられたように心臓が痛んだ。
「生まれをな」
 それは、静かな声だった。
 柘榴の声が波紋のように広がっていくのがわかる。枯れた大地に染み入るように、良昭の胸を満たす。
 涙が、あふれそうになった。
 たとえそれが、在るべき姿ではなかったとしても、共に生きることを望んでくれている。それだけで充分だった。
「……俺には、無理だな」
 消え入りそうな声がした。
 乙木の声だった。
「捨てられるのか?」
 柘榴の問いかけに乙木は答えない。
 沈黙が訪れて、時が止まったかのような錯覚を覚える。
 柘榴が捨て、乙木が捨てられないもの。乙木が捨て、柘榴が捨てないといったもの。
 生まれと、今。
 良昭に出来るだろうか。たとえば柘榴と生きていくために、久瀬良昭という生まれや存在の証明を、捨てなければならないとしたら。
「もっと早く、良昭とお前に会いたかったよ」
 乙木はおそらく笑っているのだろう。
 いつものような活力に満ちた笑みではなく、今にも砕けてしまいそうな弱さで。
 それでも、笑っているのだろう。
 戸に伸ばした腕は、凍り付いたまま動かない。
 どうすればこの空気を破ることが出来ただろう。
 乙木たちが帰ってこないことを不審がるまで、良昭は中に入ることが出来なかった。
 月が奇麗だったからという言い訳を、二人がどこまで信じたかはわからない。
 その月の下を乙木が帰り、柘榴は良昭とともに眠った。
 静かな夜だった。

 奇妙な夢を見ていた。
 良昭は離れの自分の部屋にいて、ふらりと外へ出て行く。庭を抜け、門をくぐり見知った道をただ黙々と歩く。
 路地から路地へ、足は自然と動いた。
 行く先をよく知っているような、迷いのない足取りで複雑な経路を辿る。
 見慣れた景色はなくなり、はじめて通る小道へと進んでいく。
 名も知らぬ商店の脇を抜け、立派な一軒家の前を通り過ぎ、それでも足はとどまることを知らなかった。
 そうやってどれほど歩いたのか、顔を上げると目の前に古びた洋館がそびえていた。かなり広い。壁面にはこった装飾が施されているのが見えた。
 鉄の棒を組んで出来た門が、誘うように開いていく。煉瓦の小道が洋館の玄関までを彩る。
 良昭の足は自然に煉瓦を踏みしめていた。
 左右を見渡すと、良昭の知る庭とは別の美しさがあった。様々な形を模るように整えられた樹木、真っ白に磨かれた彫像が緑の世界に儚さを添える。花の盛りには早いらしく、小さな蕾たちが時を待っていた。
 人のいる気配はない。
 静かに、まるで時間が止まってしまったような光景だった。小さな模型を見ているような気分になる。よく作り込まれた完璧な箱庭。そこには余計な物の入る隙間はない。
 いつまでも庭を見ていたい気分だったが、良昭はあらためて洋館と向き合う。
 大きな両開きの扉に、虎の彫刻が飾られていた。ノッカーというんだったか。朧気な知識の中からその名を引き出す。
 威圧感に気圧されながら良昭が扉に手を伸ばすと、カタンと中から小さな音が聞こえた。
 鈍い動きで、扉がその身を動かす。
「……おっと」
 一歩下がって扉が開いていくのに任せる。どんな仕掛けだろうかと思ったが、想像もつかない。
 扉の向こうは、一切の闇だった。
 一歩踏み込めば飲み込まれてしまいそうな、深淵。
 けれどなぜか、そこに踏み込まなければならない気がしていた。そのために、良昭はここまで来たのだ。
 覚悟を決めて足を踏み入れた時、火が灯るように闇の中に何かが浮かび上がった。
 闇に溶ける、老竹色の。
「――――……」
 言葉を口に出来たのかはわからない。
 喉の震えはわかるのに、何の音も鼓膜がとらえられない。まるで音という存在そのものが掻き消えてしまったような絶対的な静寂。
 無音の中で、一対の目が振り返る。
 その名を。


 目を開けた時、良昭はいつもの天井を見つめていた。
 重い頭を起こして、喉に手を当てる。
 鼓膜は正常に朝の音を聞いている。鳥の声、風に揺れる木々の音。人々が生活している証の物音たち。
「どうした?」
 隣で柘榴が身体を伸ばしていた。彼も目覚めたばかりのようだ。珍しい。良昭は柘榴ほど早起きではないから。
「……いや、妙な夢を見た」
「妙な夢?」
 柘榴が眉をひそめる。
 そう、妙な夢だった。目に映る景色は明瞭で、町を歩いている感覚など今思い出しても夢だったとは思えない。
 なのに一つだけはっきりと思い出せない部分がある。
 闇の中に浮かんだ、あの色。
 そして喉をついた音にならない声。
 あの感覚と同じものを、いつだったか体験した気がする。
「……良昭?」
 柘榴に顔を覗き込まれて、我に返る。
「悪い、なんでもないんだ」
 どうしてか、夢のことを柘榴に話す気にはなれなかった。
 話せばその眉間の皺を深くして心配するだろう。止めようとするかもしれない。
「柘榴、ちょっと散歩に行ってくる」
「散歩って……お前、朝餉は」
「母さんには適当に言っておいてくれ」
 呼び止める柘榴の声を無視して、良昭は離れを飛び出した。
 行く先は知らない。
 それでも足は自然と庭を抜けて門をくぐる。
 見慣れた道を進んで、路地から路地へと渡る。目指す場所は知らずとも、行く道は知っていた。
 朝の冷たい空気の中、歩く人の姿はまばらだ。
 何をしているのだろうと思った。見たこともない場所へ行こうとするなど、狂気の沙汰だ。
 それでも足は止まらなかった。
 名も知らぬ商店の脇を抜け、立派な一軒家の前を通り過ぎ、ただひたすら夢の記億を頼りに歩く。
 そうして息も絶え絶えになった頃、あの洋館が現れた。
「――これが……?」
 思わず愕然と呟く。
 そこにあったのは間違いなく夢の中で見た屋敷だった。
 だが何もかもが違う。
 目の前にそびえる現実の洋館は、とうの昔に朽ち果ててしまっていた。
 塀の煉瓦はいたるところでひび割れ、崩れ落ちているところさえある。鉄の門は錆びて歪み、半開きのまま固まっていた。その足下を苔や蔦が我が物顔で支配する。
 雑草が敷地のほぼ全てを覆い、庭を横切る煉瓦の道がその隙間からかろうじて見て取れる。
 恐る恐る門の隙間をくぐると血にも似た錆の匂いが鼻をついた。
 その先は薄暗く、重苦しい空間だった。
 木という木は全て枯れ果て、中には地に倒れ朽ちゆくだけの木もあった。彫像らしい塊も残されていたが、そのどれもが本来の形を失い、泥と苔にまみれていた。
 朝靄の中に浮かび上がる朽ちた庭。その恐ろしく凄惨な美しさに心が凍り付きそうだった。
 夢の中であの美しい光景を見ていなければ、この庭が庭として機能していた頃のことなど、とうてい描けなかっただろう。
 この庭はどれほどの間、人の手から離れてしまっていたのか。
 たかだか数年でこうまでなりはしない。
 絶対的な退廃が、満ちていた。
 朽ちた庭を見ているのがつらく、良昭はすぐに扉へと向き直った。虎の彫刻は既に失われ、崩れた残骸が残されているだけだった。
 この扉の向こうに、いるのだろうか。
 人の気配は欠片も存在しない。
 それでも確信を持って、良昭は扉に手をかけた。
 悲鳴のような甲高い音を立てて、じりじりと扉が開いていく。たったそれだけの動作で土埃が舞って咳き込む。
 その先は、完全な闇というわけではなかった。
 良昭が開けた扉以外にも、光が差し込む場所があるらしく、廊下の輪郭が見て取れた。これなら中に入っても歩き回るぐらいは出来るだろう。
 意を決して、良昭は洋館の中へ足を踏み入れた。
 ここから先に何があるのかはわからない。
 目を閉じて、朧気な輪郭を描く。
 老竹色の、影。
 その名を口にすることは憚られた。どうしてか、姿を見るまで呼ぶ気にはなれない。
 闇の中に浮かんだ朧気な姿が、振り向いたはずの一対の瞳が、良昭の知る男とは違う存在のような、そんな不安に駆られる。
 それでも、顔を上げると、良昭は力強く足を進め始めた。


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