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幻迷奇譚

まよいみちのはなし




 誰かの名前を呼んだような気がした。
 口内から吐き出された音が鼓膜をかすめていく。
 余韻は残っているのに、それは言葉として意味を成さず記憶の底に崩れて落ちる。
 取り残される。
 喪失感が胸を冷やし、続くはずだった言葉が凍り付く。
 誰か。
 誰か。




 目を開けたとき、飛び込んできたのはいつもの天井だった。
 十五の時に移り住んで以来、ずっと変わらない光景だ。
 母屋から庭を挟んで建てられた離れが良昭の暮らす場所だ。一階が居間で二階が寝室兼書斎。良昭にとっては立派な家だ。
 どうして彼らが離れで暮らすことを望んだのか、正確な理由を知っている家族はいない。おそらく一生話すことはないだろうと良昭は思っている。
「起きたか」
 部屋の隅から穏やかな声がかかる。
 すっかり身支度を調えて、朝日の差し込む窓際で猫とともに男がくつろいでいた。絹のように細やかな黒い髪はこざっぱり整えられ、洋装によく似合っている。今着ている服は良昭の兄からもらったものだろう。以前、次兄が着ていたのを見たことがあった。
 良昭の母親が何かと着飾らせようと画策しているようだが、本人は動きやすい生成りのシャツが一番気に入っているらしい。着飾られると隣を歩きづらくなるので、良昭にとってはありがたい。
 この男の美しさは、素朴な服装で覆い隠せるようなものではないけれど。
 いつだったか彼を指さして、あれは人の美しさではないよと囁いた人がいた。誰だったか。怒りが沸くのと同時に、納得している自分がいたのも確かだった。
 人形のような顔立ちも成長とともに表情が増え、最近では抜きんでて整った顔立ちだと言われることはあっても、人ではないとまでは言われなくなった。
 それが、彼にとっていいことなのかはわからない。
 名を柘榴。
 人ではない者を母に持つ、同居人。
「顔色が悪いな。夢見が悪かったのか」
「……夢?」
 寝起きの覚醒しない頭で、言葉の意味を緩く噛み砕く。朝に弱いことを熟知している十年来の幼なじみは、片手で猫の喉を撫でながらのんびりと待っていた。
「ああ……そういえば、見たような気がする」
 今にも散っていこうとする朧気な記憶をかき集め、見ていたはずの夢の情景を作り出す。
 しくり、と胸が痛んだ。
「確かにいい夢じゃなかった」
 誰かを呼んでいた気がする。
 薄暗い小道で、痛いくらい必死に。
「だろうな」
 じゃれつく猫をあしらいながら無表情に柘榴が呟いた。
「なんだ、人が見ている夢のことまでわかるのか? 初耳だぞ、それは」
「そういうわけじゃない」
 柘榴が眉をひそめる。
 昔から柘榴は妙に勘が良かった。何度も彼の言ういやな予感に良昭は助けられてきたが、本人はあまりそのことに言及したがらない。
「しかめっ面で寝ていた人間ががいたら、夢見が悪かったと思う方が普通だろう」
「なんだ、そういうことか」
 呆れたように溜息をつくと、それで?と抑揚のない声が問いかけた。
「え?」
「どんな夢だったんだ」
「……どんなって」
 また夢が朧気になっている。
 先刻、何かを思い出したはずだ。
 薄暗い小道。
 そして。
「――鳥居だ」
 ぱっと、脳裏に光景が蘇る。記憶の糸が繋がって、不明瞭だった輪郭が集約し始める。
 かすかな木漏れ日が注ぐだけの、暗い四つ辻。
 砂利を踏みしめる感覚。
 のしかかるような木々のざわめき。枯れた竹で出来た垣根。
 そして、鮮やかな鳥居。
「どこか薄暗い道で鳥居があった」
 興味があるのかないのか、柘榴は静かに聞いている。
「そこで……誰かを呼んでいた気がする」
「誰か?」
 良昭の手が、自ら喉に触れる。
「誰かがいなくなって、その名前を呼んでいた……んだと思う」
 一瞬だけ、柘榴の表情が変わったように見えた。
 何かを言いかけて口を噤み顔を伏せる。
 その動作を訝しんだときには、もう顔を上げていつもの柘榴の表情に戻っていた。表情らしい表情もなく、何を考えているのか計りかねる曖昧な顔。
「確かにあまりいい夢じゃないな、それは」
「ああ……」
 柘榴は何を言いかけたのだろうか。
 その口から、出るはずだった言葉。名前。夢の中で呼んでいたはずの誰か。
 赤く散る花びらを思い出して、良昭は顔をしかめる。失言だった。
 柘榴が何を言いかけたのかまではわからない。だが、そのとき考えていただろう人のことなら予想がついた。
 いや、つかなければならなかった。口から出すよりも前に。
 柘榴の母親に当たる存在が、いなくなってしまったのはついこの間のことだ。
 赤い花とともに逝ってしまった、妖艶な(ひと)
 その光景はまだ色濃く焼き付いているのに。
「……鳥居は、基本的には吉兆だ」
 浅はかな自分を呪っていた良昭の耳に、唐突な柘榴の声が届いた。
「は?」
「だからあんまり気に病むな。凶兆だったとしてもただの夢だ」
「あ、ああ……そうだな」
 考えていたのは夢のことではないが、柘榴の気遣いに肩の力が抜ける。
 気にしすぎて柘榴に心配をかけるようでは本末転倒だ。
 思い切り腕を伸ばして、重くなりがちだった思考を切り替える。もう日はずいぶん高い。
 窓から差し込む光は穏やかで、今日もいい天気になりそうだった。
 もうそろそろ冬も終わる。
「……散歩にでも行くかな」
 窓の向こうを眺めながら良昭は呟く。
 明るい陽射しを受けて、庭全体がきらきらと光っているように見えた。父の意向で庭はいつも完璧に手入れされている。仕事関係の相手にこの庭を見せて圧倒させるのが趣味らしい。
 その庭の隅、ちょうど離れのすぐ傍らに柘榴の木がある。落雷で折れて以来、ずっとさのままになっている木だ。父が父なので折れた木なんてすぐに片付けてしまうかと恐々としたが、意外なことにそのまま残してくれた。隅にあるからそこまで気にしなかったのか、良昭と柘榴のことを慮ったのかは、おそらく永遠に明かされないだろう。
 あの木の下で、幼い柘榴は拾われた。
「いいんじゃないか。天気もいいし」
 柘榴が空を仰ぎながら言う。
 付いてくる気はないらしい。良昭もたいがい出不精だが、柘榴はそれを遙かに上回る。
「……お前は?」
「ここで猫と戯れてるさ」
 予想通りの答えに、溜息しか出ない。強く来いと言えば、否とは言わないことは知っているが、だからこそそうすることは出来ない。自分から残ると言いだしただけでも充分な進歩なのだ。
 簡単に着替えを済ませて、雑然とした机を引っかき回して時計と財布を見つけ出す。
「気が向いたら昼は外で食べてくる。日が暮れる前には戻るから」
「わかった」
 時計を懐にしまうと、ずしりとした重さがかかる。この離れに移ることになった日に、父からもらった物だ。子供のころ欲しがっていただろうと言われても、良昭はすぐに思い出せなかった。本当に子供のころだ。父に連れられて行った縁日で、欲しい物を聞かれたときに、その手にある懐中時計が欲しいと言って呆れられた。
 思えば、父親との思い出はそれくらいだ。
 あとはただ仕事に向かう後ろ姿を眺めていた気がする。
 そして隣にはずっと、柘榴がいた。
「……そういえば、このあたりで十字路のある神社ってあったか?」
 一番近い神社は半刻もかからないところにあるが、猫の額ほどの境内しかない小さなものだ。夢の中のような場所はないだろう。
「俺にわかると思うのか?」
 柘榴が少し不機嫌そうに眉をひそめた。
 滅多に家を出ない柘榴に、良昭にもわからない場所がわかるはずもない。
「それもそうか。悪い悪い」
 柘榴の溜息に見送られながら良昭は離れを出た。
 目的はない。ただの散歩だ。
 あの夢の光景を探すのは、あくまでもただのついで。
 それでも良昭の頭に浮かんだ地図には、しっかりと神社の位置に印がつけられていた。


 結局、一日がかりで近隣の神社を回ってしまった。
 夕餉もそこそこに済ませ、さっさと離れに戻る。
 父や兄たちは仕事場で食事を取ることが多く、たいてい母と柘榴の三人で食卓を囲むことになる。良昭としては朝昼と同様、離れでのんびり過ごしたいのだが、それだけは母が頑として譲らなかった。
「疲れてるな」
 良昭に合わせて戻ってきた柘榴が呟く。
 猫はもういないが、窓際の定位置に腰を下ろした。
「まったくだ……」
 早々に布団の上に転がり込む。
 身体を伸ばすとぼきぼきと骨が音を立てた。
「もう寝るのか?」
 柘榴が目を丸くしている。
「あー……」
 確かにいつもなら、寝るには早すぎる時間だ。
 行灯の灯りを頼りに延々と本を読んだり書き物をしたりと、夜更けまで起きているのが常だ。枕元に置きっぱなしだった本は、そうして読みかけにした本だ。
「疲れているなら素直に寝ろ」
 ふっと、かすかに笑う気配がした。
 首をひねって柘榴を見上げると、仄明かりの向こうに微笑む柘榴が見えた。慣れていなければ気付かないほど些細な表情だ。
「……そうする」
 良昭がそう言うと、答えるように柘榴が行灯の火を落とす。
 一瞬の余韻を残して辺りは漆黒に包まれた。


 薄暗い道を歩いていた。
 枯れた竹が押しつぶすように両脇にそびえ立っている。
 見覚えのある道だ。どのくらい歩いていたのだろう。ぼんやりそんなことを考えたが、振り返る気にはなれなかった。
 辺りは静かだった。
 砂利の上を、自らの足が踏みしめるその音だけが繰り返し響いていた。
 乱れることのない正しさで、ひたすらに歩いていた。
「――良昭」
 降って湧いたような声に、すぐには頭が付いていかなかった。
 それが自分の名前だと気付いてようやく顔を上げると、呆れたように微笑む友人が立っていた。
「乙木」
 良昭が名前を呼ぶと、応と短く答えた。
 古めかしい老竹色の着物をまとい、伸ばしっぱなしの髪は大雑把に結っただけ。洋装はともかく、もう少し若者らしい着物を着たらどうだと言ったことがあるが、乙木の趣味はあれから変わっていないようだ。あれは、いつのことだったか。だいぶ前のような気もするし、つい最近のような気もする。
「やたらと陰鬱な顔して歩いていたな、何かあったのか?」
 好奇心を隠さないで乙木が聞く。猫によく似た目は、いつも楽しそうにらんらんと輝いている。
 組んだ腕の影に、一冊の本が見えた。おそらく彼がいつも持ち歩いている和綴じの本だろう。
「別に、何があったってわけじゃないさ」
「そうか? 眉間に皺が寄っているが?」
 指を指されて、思わず手を当てる。確かに無意識のうちに力が入っていたらしい。
「本当に何もないんだ。というか指を指すな」
 皺をほぐしながら良昭が言うと、乙木が楽しそうに悪かったと笑う。
 無表情な同居人の顔が浮かんた。
「どうした?」
「……いや」
 良昭のかすかな変化に気付いて、乙木が首をかしげる。
 そうだ、この友人は勘の良さがよく似ているのだ。
「あいつもお前くらい表情が豊かになればな、と思って」
「……ああ、例の同居人か?」
 幾度か瞬きをしたあと、合点がいったように乙木が呟く。
 その様子に妙な違和感を覚えた。
「お前、会ったことなかったっけ?」
「ないなあ。お前から話を聞くだけだ」
 そうだったろうか。
「でもお前、俺の部屋に遊びに来たよな?」
 いつだったか、書き物をしているときに邪魔をされた記憶がある。予告もなく唐突に来たので、えらく迷惑だった。
 あの離れに来ているのに柘榴と会っていないというのもおかしな話だ。
「あの時はお前一人だったぞ」
「……そうだったか?」
 確かに朧気な記憶の中に柘榴の姿は見えない。しばらく考えて、おそらく母に頼まれて何か家の用事でも手伝っていたのだろうと思い至った。あの母はそういうことを実の息子ではなく居候の柘榴に頼みたがる。
「そうだそうだ。俺は良昭の同居人と会ったことはない」
 口を三日月のような形に歪めて、乙木が言う。
 それが笑顔だと気付くまで、やや時間がかかった。先刻から、頭の回転が鈍い。
 いや、乙木の表情が奇妙なのかもしれない。笑っているはずなのに、そうとは見えない歪な笑み。何かに似ていると思っても、思い出せそうにない。
「なら、今度あらためてうちに来い。柘榴もたまには家族以外の相手と話した方がいいだろうし」
「世話焼きだねえ」
「そう言うのはお前くらいだよ」
 普段は逆だ。柘榴が世話をしているように見える。
 惰眠をむさぼりがちな良昭を起こし、朝餉を取りに行き、家にいるなら猫とともにくだらない話の相槌を打ち、夕餉に引っ張っていくついでに支度の手伝いをし、早く寝ろと急かす。まるで母親のようだと兄たちは笑う。
「そうか? 良昭はだいぶ世話焼きだろう。ほら、蝋化の病にかかった女の子の時とか」
「あれは可愛い春ちゃんだったから、あそこまでしたんだ。お前だったらせいぜい見舞いに行って終(しま)いだ」
 相手が乙木だったら詳しく話を聞いて、面白可笑しく装飾した文をどこかの新聞社にでも送りつけていたかもしれない。
 そう軽口を続けようとして、妙な感覚に襲われる。
 違和感。
 何かがずれている。
 ある日突然、肌が蝋のように固まる奇病。病の流行りはとうに廃れて、まるで夢か幻だったかのように忘れ去られている。その原因と、原因を知るに至った顛末。
 一人の少女と、その悲しみの行方。
「……俺、いつお前にその話をした?」
 馴染みの医者に病にかかった知り合いがいたことと、原因に関する推論を話したことはある。それでも細かな経緯までは話さなかったはずだ。
 話すはずがない。
「したよ」
 また乙木が笑う。奇妙な笑顔。
 貼り付けたような表情で、歪な感情で。
「してない……いや、するはずがない」
 ガラス玉のような乙木の瞳。
 見慣れているはずの、見慣れていない色。
 懐かしいと感じるのはなぜだ。誰と似ていると比べている。
「人の恋路を吹聴するような真似は、俺はしない――」
 意識するよりも早く、腕が乙木へと伸びた。
 届くはずだった手は空を切る。
 瞬くよりも早く、乙木の身体が遠のいていた。
「……残念」
 乙木が数歩離れたところで、懐から本を取り出す。
「確かに良昭はその話を俺にしてないよ」
「……乙木?」
 どこから持ってきたのだろう、唐突に乙木の手には筆が握られていて、本に何かを書き留めていく。
「でも俺は知っている。なあ、良昭、知っているんだよ」
 泣くのか、と思った。
 口元は笑っているのに、悲しげに細められた眉。こんなところも反対なのだと気付く。黙っていると人でないように美しい男と、崩れた表情に胸を突くほどの魅力を感じる男。
 (ごう)/と一陣の風が行き過ぎる。
「――乙木!」
 吹き上がった砂塵に、咄嗟に顔を庇った。
 そのときなぜ、彼の名前を呼んだのか良昭にはわからない。
 ただ、風が行き過ぎたあとに残されたのは、陰鬱な十字路とそれを見下ろすくすんだ鳥居だけだった。


 夢を見ていた。
 誰かの名前を呼んでいた気がした。
 取り残される喪失感が胸を冷やし、続くはずだった言葉が凍り付く。
 待ってくれ。
 待って。


 良昭、と呼ばれた声に違和感を感じたのは初めてだった。
「……柘榴?」
「起きたか。うなされていたぞ」
 目を開けると、柘榴の顔が視界を塞いでいた。何か気になることでもあるのか、良昭の顔を覗き込んだあと、ようやく身体を起こしいつもの窓際へと戻る。
「悪い、心配かけた」
 良昭が身体を起こすと、思った以上に身体が重い。昨日の疲れと、夢見が悪かったせいもあるのだろうか。
 朝の光の中で、柘榴が物言いたげな視線をよこしている。
 眩しいと思った。
 夢の中にはなかった光だ。
「……同じ夢だったよ」
「そうか」
 薄暗い小道。十字路。そして色褪せた鳥居。
 喉から発せられる己の声。
 それは誰かを呼んでいたのに。
「やっぱり、思い出せないな……誰を呼んでいたのか。俺のよく知る誰かだと思うんだが」
 夢の映像は朧気で、先刻まで感じていたはずの喪失感も曖昧なものに変貌していく。
 必死になって引き留めるほどに、その誰かを思っていたというなら。
「知り合いだったのか?」
「たぶん」
 先刻、名前を呼ばれて違和感を感じたのだから、柘榴ではない。
 敬称をつけて呼んでいなかった気がするので、家族は除外してもいいだろう。もとより両親や兄たちをあんな風に呼んだりはしない。
 親しい知人の顔が代わる代わる浮かんで、眉間の皺が深くなる。
 そんなに友人が多い方ではない。なのに浮かぶ顔浮かぶ顔、皆違うような気がしてくる。
「良昭、夢は夢だ」
 顔を上げると、険しい顔つきで柘榴が見ていた。
「ん、そうだな……」
 柘榴がどういうとらえ方をしているかはわからないが、良昭が思う以上に心配をかけてしまったらしい。
「腹が減ったな。朝餉にしようか」
 何気なさを装い、良昭が笑う。
 柘榴と違って笑うのは得意なのだ。


 湿った空気の中、砂利を踏む音が反響する。
 辺りは薄暗かった。
 ただの散歩のつもりが随分遠くまで来てしまった。ただでさえ、先日の疲労が残っていて足が重いというのに、どれほど夢のことが気になっているというのか。自分でも呆れてしまう。
 溜息とともに頭上を仰ぐと厚い緑の層が光を遮っていた。その向こうには曇天が重くのしかかっている。雨でも降られたら厄介だ。
「良昭じゃないか」
 明るい声に良昭が振り返ると、意外な男が手を上げながら駆け寄ってくるところだった。
「乙木? こんなところで何しているんだ」
「それはこっちの台詞だ。お前こそこんな遠くまで何しに来たんだ?」
「……散歩だ」
「は? こんな遠くまで?」
 乙木が呆れた声を上げる。
 確かに通常散歩で来る距離ではないかもしれないが、そんな反応をされていい気分ではいられない。悪いかと突っぱねようとしたところで、乙木がぱっと表情を変えた。
「ああいや、うん、たくさん歩くのは健康にいいものな」
 あからさまに焦った顔をされれば、些細な苛立ちもすぐに霧散してしまう。
 身近に接している同居人が同居人なので、表情がくるくると変わる人間はそれだけで好感が持てるようになってしまった。
「……まあ、確かに散歩と言える距離ではないからな。それで、お前はここで何をしてたんだ」
「あ、俺も散歩」
「お前も?」
 一瞬、ふざけてからかっているのではないかと思ったが、特にそう言うことではないらしい。
「この辺りは俺の庭みたいな物だからさ」
「へえ」
 そういえば乙木がどこに住んでいるのか聞いたことがなかった。家を訪ね合うような間柄でもなかったし、時折街で顔を合わせては他愛もない話で時間を潰す程度の関係だった。
 家の場所も知らなければ、普段何をしていて、どんな暮らしをしてきたのかも良昭は知らない。
「お前は、あまり自分のことを話さないな」
「そりゃ良昭みたいな面白可笑しい人生を送ってはいないから」
「人を奇人扱いするなよ……」
 言い返しては見たが、声に力がこもらない。
 良昭自身の人生は他愛のないものでも、そこに柘榴という同居人を加えるとそうも言っていられないことぐらい良昭もわかっていた。
 悪い悪いと、まったく悪びれない様子で乙木が笑う。
「それより、のんびりしてていいのか? そろそろ帰らないと日暮れまでに帰れないと思うぞ」
「あー……」
 雲に覆われて細かい位置まではわからないが、日はまだ落ちてはいない。それでも家までの距離を考えると、乙木の言うことは正しいだろう。疲労の残る足のことも考慮に入れると、間に合わない確率の方が高そうだ。
「そうだな、今日はもう帰るか」
「だったらこのまま真っ直ぐ行くといい。戻るより突っ切った方が早く帰れる」
「ならそうする。お前はどうするんだ?」
 問いかけると乙木の細い指が、良昭の背後を指さした。
「俺はあっち」
「そうか。じゃあ、またな」
 また、と乙木が微笑んで手を振る。
 二人分の足音が薄暗い小道に響き渡った。
 くすんだ鳥居が、脳裏をかすめる。
「――乙木!」
 振り返ると、まるで良昭がそうするとわかっていたかのように、乙木が振り向いていた。
「どうした?」
「……その、この辺に鳥居のある十字路とか、あるか?」
 きょとんと乙木の目が丸くなる。
「あるよ、そこからすぐだ」
 白い指が道の向こうを指す。
 意味ありげに乙木が微笑んだ。
 良昭が何をしにここまで来たか知っているような、意味ありげな口元。
 何を考えているのか。問いかけようとしたときには、乙木は背を向けて歩き出してしまっていた。
 喉から出そうになっていた言葉を飲み込む。苦々しい感情が胸に広がった。
 何を聞こうとしていたのか。良昭の夢のことなど乙木が知るよしもなければ、笑って別れることに怪しいところなどありはしない。
「――早く、帰ろう」
 ぽつりと呟いた声は、仄暗い静寂の中に溶けて消えた。
 もう、乙木の足音は響いていなかった。


 砂利道を歩く音が辺りに響く。
 見覚えのある道だ、と思った。こんな遠くまで来たのは初めてだと思っていたが、もしかしたら前に来たことがあったのかもしれない。
 足元ばかりを見て歩いていた。
 だから、それが目の前に現れていたことにしばらくの間気付いていなかった。
 赤い。
「……鳥居、だ」
 長い間、手入れもされてこなかったのだろう。くすんだ赤は所々色が剥げ、虚ろな木肌を晒している。
 そして鳥居の先にあるのは。
 四つ辻。
 十字に交わる、静かな小道。
「遅かったな」
 分かれた道の一つから、その声が響いてきた。
 砂利の踏む音ともに男が近づいてくる。
 老竹色の影が忍び寄る。
「……乙木」
「どうした、狐につままれたような顔をして」
 乙木は笑っていた。
 いつものように好奇心を隠さない、猫のような双眼。
 白々しさの欠片もない、ごく当たり前の乙木の笑顔だった。
 だからこそ、異様さが沸き立つ。
「どうしたもこうしたも、今まさにそんな気分だ」
「化かされたのか? この辺りには狐はいないはずなんだけどなあ」
 狐狸でないというなら、どんな悪戯だ。
 先刻別れた人間が、平気な顔して目の前に立っている。言い忘れたことがあるとも、用事を思い出したとも言わない。
 なぜ今日はじめて会ったような顔をして、立っているのか。
「こんなところで、何をしていたんだ……?」
 良昭は振り絞るようにして声を出した。
 奇妙だった。
 目の前の乙木も、その表情も、何より先刻別れたばかりだろうと笑うことが出来ない自分自身が。
「散歩だよ。お前こそこんな遠くまでよく来たなあ、母君の使いか何かか?」
 こんな遠くまで。
 その言葉がひやりと背中を撫でる。
 生活圏から遠く離れた場所まで、何のためにやって来た。どうやってここまで来た。その道順は。経緯は。
「……夢だ」
「夢?」
「そうだ、夢を見たんだ。その場所を、探して」
 乙木が首をかしげたまま笑う。
 口元を歪めて、楽しそうに楽しそうに笑う。
「それでわざわざこんなところまでか。で、見つかったのか?」
 いやなものを思い出した。知り合いの翻訳家にもらった、異国の物語。奇妙な世界に迷い込んだ少女が出会うのは、不気味な笑い方をする生き物。
「ああ……見つかった」
「それは良かった。なんでそんな怖い顔をしているのかはわからないけど」
 呆れたように肩をすくめる。
 いつもなら、今までなら一緒になって笑うことも出来ただろう。
 だが良昭は気付いてしまった。
「これは夢なんだろう、乙木」
 ぴたりと乙木の動きが止まる。
 溶けるようにその顔から表情が消えていく。
 能面のような、人間味のない表情。
 同じだと思った。
 幼いころの、出会ったばかりの柘榴。笑うことも知らず、人間らしいことは何一つ出来なかった、奇妙な幼なじみ。
「良昭は鈍いのか勘がいいのか、よくわからないな」
 乙木が笑った。
 いろんなものを諦めるように小さく息を吐く。
「俺が夢の中で呼んでいたのもお前なのか? 今こうしていることも、俺は忘れてしまうのか?」
「それは良昭次第じゃないかな」
 まるで仮面を貼り付けたような顔だった。
 こんな人間味のない笑い方を見たことはない。いつもの乙木なら、もっと快活で様々な感情がその目に爛々と宿っていたはずだ。
 いつもの、乙木なら。
 そうだ、何度も見てきた。
 好奇心を隠さない猫のような目。渋い色の着物をまとって、もっと若者らしい色を着ればいいのにと何度思ったことか。人が書き物をしているときに邪魔しに来たこともあったじゃないか。柘榴に会わせたいと言ったら、世話焼きだと呆れられた。
 あれは、いつのことだ?
 ついこの間のような気もする。
 だいぶ前の出来事だったような気もする。
 蝋化する奇病の話もしたはずだ。だとしたら少なくともこの半年の間に一度は会っていることになる。
 それは、いつだった?
 めまぐるしく思考が回る。考えれば考えるほど、何か根拠のある記憶なのか曖昧になっていく。まるで消えていく夢の輪郭のようだ。
 思い出そうとすればするほど、明確さが目の前で失われていく。
 それが夢のことならば、その崩壊を止める術などありはしない。
「……乙木、知っているなら教えてくれ」
「答えられることなら、なんなりと」
 明るい調子で乙木が答えた。
 耳慣れた声音にほっとする。
「お前は、誰だ」
 言葉の塊が醜く堅いもののように口から吐き出されていく。
 灼けるように胸が痛んだ。
「思い出せないんだ、お前とはじめて出会ったとき……どんなふうに知り合って、どんなふうに言葉を交わしたのか」
 記憶の中の乙木はいつも笑っている。
 思い出そうとすれば、いくらでも遡れた。幼いころの記憶にも、つい最近の記憶にも、見出そうとすれば乙木はどこにでもいた。
「お前の名前を俺は誰から聞いた? 俺はお前に名乗ったか? 柘榴を紹介した?」
 手が乙木の胸ぐらに伸びた。
 老竹色の布地を良昭の手がかすめる。
 届かなかった。
「それで、良昭はそれを知ってどうしたいんだい?」
 一歩離れたところで、乙木が微笑んだ。
 感情の見えない笑み。
 冷たい、月のように冴え冴えと。
「俺は……」
 思い出せない。出会った日のことも、心を許したきっかけも、柘榴について話した日も。
 なのに覚えている。
 馬鹿みたいに笑い合った。他愛もないことで盛り上がった。端から見たら意味のないような口論もした。いつのことだかも、現実に起きたことなのかも、今ではもう曖昧でしかないのに。
 猫のような目が爛々と輝く様が好きだった。ころころと変わる表情をいつまでも見ていたいと思った。
 悲しげな顔を見て、笑っていて欲しいと願った。
「お前を失いたくない」
 言葉が自然と口からあふれ、生ぬるい物が頬を滑っていった。
 たとえ全てが夢や幻だったとしても。
 過ごしたはずの時間が、存在しなかったものだとしても。
「なかったことになんて出来るはずがない」
 夢から覚めたとき、あんなにも胸が痛んだのはなぜだ。
 喪失感で魘されるほど苦しんだのはなぜだ。
「まったく、お前は……」
 溜息とともに乙木が言った。
 言葉が続かないらしく、何度も何かを言いかけては口を噤んで首を左右に振った。
「――世話焼き、だな」
 今にも泣きそうな顔で乙木が言った。
「そんなこと言うのは、お前くらいだ」
「俺たちみたいな奴らにやさしくしても、良いことなんてないぞ」
 涙を押し殺すように苦笑する。
 乙木の言いたいことは良昭には理解できなかったが、その脳裏になぜか柘榴の顔が浮かんで消えた。
「なあ、全部嘘だったのか」
「全部じゃあないさ」
 全てが偽りだったわけではない。
 だが全てが本当だったわけでもない。
 何が正しい記憶で、どれが偽物だったのか問い詰めることに意味はあるだろうか。
「……なあ、乙木」
「なんだ」
 名を呼べば応えが返る。
 耳慣れた声。予想通りの言葉。
 歪な関係を、無理矢理に直したところで崩れてしまうのならば。
「もう一度、はじめてみないか」
 たとえば町ですれ違うところから。
 たとえば知り合いから唐突に紹介されるところから。
 たとえば同じ本を手に取るところから。
 今までしてきたような他愛もないやりとりを、今まで通り友人として。
 もう一度。
「ほんと、お前って……」
 乙木の声が震えていく。
 はじめて聞くはずの響きだったのに、不思議と心地が良かった。
「駄目か」
「……仕方ないから、やり直してやるよ」
 そう言って顔を上げた乙木の顔が、笑っていたのか泣いていたのか。
 朧気な輪郭は、朝の光を受けて瞬く間に霧散していく。
「乙木!」
 叫んだ声が届いたのかはわからない。
 それでも喉を震わせたその名前は、確かな余韻を持って良昭の中に響き続けた。
 夢から覚めた、そのあとも。


 朝餉をすますと、柘榴はさっさと後片付けに行ってしまった。
 また兄たちや母親から柘榴を使用人扱いしてと、お叱りを受けてしまうかもしれない。一応、本人の自主性に任せた結果なのだが。
 猫のために開け放している窓の向こうは、眩しい陽射しに満ちていた。
 落雷で折れた柘榴の樹も、今は光を受けて美しく輝いているだろう。
 何もかもが祝福された物のように満ちる春。
 薄暗い四つ辻の夢はもう見ない。
 乙木と呼んだ友人の姿も、夢に現れることはなくなるだろう。
 良昭に残されたのは、本物か幻か定かではない曖昧な記憶だけ。
「……散歩にでも行くか」
 柘榴はまだ母屋から戻ってこないが、書き置きでもしていけば大丈夫だろう。
 ここ数日は特に魘されることもなく柘榴に余計な心配をかけることもなくなった。
 乙木のことは、まだ話せていない。
 どう切り出したらいいものか迷っているうちに、日が経ってますます言いにくくなってしまった。
 それでも、そのうちに世間話のように話せたらいいと思っている。
 普通の人間とは少し違う友人が出来たのだと、さもそれが平凡なことのように。
 散らかしたままだった原稿用紙を広げ、手短に散歩に行くこととすぐに戻ることを書き留めておく。行き先は……久しぶりに千世に行くのもいいかもしれない。
 かつては足繁く通った喫茶店の香りを思い出して、良昭は笑う。
 書き置きに千世の名前を書き足し、机の目立つところに置いておく。
 いつもと同じように時計と財布だけ胸元にしまい込んで、良昭は離れを出た。
 思っていた以上の眩しさに、目が眩む。
 あのくらい十字路にも、こんな光が差し込むだろうか。
 見捨てられた鳥居も、陽射しの中で見ればきっと荘厳な姿に還るだろう。
「また、探してみるかな……」
 ぽつりと呟いきながら良昭は門へと向かう。
 一先ず今日は千世だ。あんな筋肉痛に見舞われるのは当分ご免こうむりたい。
 門をくぐり、家の敷地をでるとなんとなく胸が軽くなったような気分になる。普段、引きこもっている反動か、たまの外出は心が躍る。
「よう」
 思わず背を伸ばし、明るい外の陽射しを堪能していると、そんな風に声をかけられた。
 はじめて聞く響きの、耳慣れた声。
 良昭が振り返ると、寄りかかっていた壁から離れゆっくりと近づいてくる。
 相変わらず、渋い趣味の着物だった。
「おう」
 短く良昭が答えると、その男は楽しそうに笑った。
「はじめまして、久瀬良昭殿?」
 猫のような目が朝の光を受けてきらきらと輝く。
 その表情につられるように、良昭は笑顔で手を差し出していた。
「ああ、はじめまして。――乙木」
 握り替えされた手は暖かく、確かにここに存在していることを伝えていた。


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