あなたを想っています。
涙が頬を伝います。
蝋恋
夕刻の雑踏。
近くで縁日があるせいか、いつも以上に人が多い。そんな中を俺と柘榴は歩いていた。
母に頼まれた使い一つがこんなに重労働になるとは思わなかった。なるほど、兄たちが渋る訳だ。
「どこからこれだけの人が集まったんだろうな」
後ろから柘榴が疲れた声で言う。
「まったくだ」
受け取った母の荷物を守ることに必死になりながら俺がそう返す。それに対しての返事はなかったが、俺は人にぶつかりそうになり慌てていたし、柘榴はあまり人混みに強くないので特に気にしなかった。
「なあ、確か少し遠回りになるが、そこの横道からも帰れるよな?」
いい加減、人いきれに辟易していたところで、細い路地が目に入った。一刻でも早くに雑踏から抜け出したくて柘榴に提案する。
が、振り返ってもそこに柘榴はいなかった。
「……柘榴?」
人混みの中で思わず立ち止まると、迷惑そうに睨まれた。しかし、このまま帰るわけにもいかない。いや、俺も柘榴もいい大人で、はぐれたぐらいで帰れなくなることはないが、放って帰られたら寂しいし、彼だって少しは気分を悪くするだろう。
……それとも、俺が柘榴を置いて一人で帰ってしまっても、彼は淡々としているだろうか。
少し試したい気分になった。
帰ろうか帰るまいか少しの間考えていると、人混みの向こうに長身の頭が見えた。よく目立つ、人形のように整った顔。近くを歩く若い娘が惚けたように見とれているのがわかる。少しばかり心がささくれた。どうせ俺は平凡顔だ。
「悪いな、待たせた」
「いや」
疲れた顔で微かに笑う柘榴を見て、帰らなくてよかったと思う。こんな顔の朋友を置いて帰るなんて、どれだけ残酷なんだ。
柘榴が俺に追いつくのを見計らって、細く延びる路地を指さした。
「なあ、あっちの道から帰ろうぜ」
「そうだな。たぶん、その方がいい」
柘榴が雑踏の先と、細い横道を見比べながら頷いた。
「あっち、何かありそうなのか?」
横道に向かって歩き出しながら、俺は柘榴に問う。柘榴は少し歩を緩めて、また雑踏の先を見つめた。
「いやな感じがする」
「そうか」
それから、他愛のない会話をしながら、のんびりと家に帰る。人のいない細道は、涼しげな風が時折吹き抜けて心地いい。
その日、大通りでひどい将棋倒しがあったことを、俺たちはあとになって号外で知った。
俺と柘榴が過ごす離れの窓辺で柘榴は微睡んでいた。
膝の上で、俺と柘榴が可愛がっている通い猫が丸くなって深い寝息を立てている。
「……柘榴」
名前を呼ぶとやや置いて柘榴が顔を上げる。
「ああ、良昭か。おかえり」
「ただいま」
買ってきた本を脇に置いて、柘榴の向かいあたりに座り込む。
窓辺が柘榴の定位置なら、そこから少し離れた部屋の真ん中あたりが俺の定位置になる。
「なあ、柘榴。今度、一緒に千世に行かないか?」
「千世……? ああ、最近お前がよく通ってる喫茶か」
窓辺に頬杖をついて、柘榴が俺を見る。
「そこで給仕をしている
娘がいるんだが、お前に会いたいんだそうだ」
「俺に?」
「ああ」
「何故?」
柘榴が目を丸くしている。
それもそうだ。俺だって彼女から話を聞いたときは驚いた。
「知らんよ。縁日の日の礼がしたいと言っていたんだが、心当たりあるか?」
「縁日の日……」
柘榴が目を伏せて考え込む。
「確か母さんの使いを頼まれた日だな」
「ああ、そうか」
「はぐれたときか?」
あの日、柘榴と離れたのは彼を雑踏の中で見失ったときだけだ。
柘榴はすぐに頷く。
「あの時、転んだ人に手を貸した」
「なるほど」
人混みに揉まれて転んだときに、こんな美しい男が助けてくれたら、確かにあんな夢を見るような目をするだろう。記憶に新しい彼女の表情を思い出す。
「でも礼をするほどのことでもないと思うんだけどな」
「礼だけがしたいんじゃないだろう」
「じゃあ、なんだ?」
真顔で問い返してくる柘榴に思わず言葉に詰まる。
柘榴は、鈍い。
「……お前に惚れる女性が可哀想になってきたよ」
「何の話だ」
「いい、いい。気にしなくていい。お前はそのまま変わらずにいてくれ」
面倒になって、無理矢理会話を切り上げ、脇に置いたままだった本を手に取る。
柘榴はしばらく首を傾げていたが、やがて微睡みに戻っていった。
喫茶店、千世は最近通い詰めている小さな店だ。
温かで美味い珈琲と、甘みを控えた洋菓子が売りで、俺みたいな一部の男からも人気がある……喫茶にしては少し変わった店だった。マスターはなかなか渋い御仁だが、どうやら菓子を作っているのも彼らしく、洋菓子を注文すると顔の渋みが少し増す。照れてるらしい。
「春ちゃん、こんにちは」
店に入るとちょうど盆を抱えた彼女が立っていた。派手すぎない可愛らしい朱の着物と、白い洋風の前掛けが白い肌によく似合う。奥のカウンターではマスターが相変わらず渋い顔をしてカップを磨いていた。そちらに目を向けて「マスターも」と付け加えると、彼はちらりと一瞥して肯いた。歓迎してくれるようだ。
「こんにちは、良昭さん」
ぺこりと彼女がおじぎをすると、長いお下げが可愛らしく揺れた。
「柘榴、連れてきたよ」
「えっ、本当ですか」
「本当本当。……ほら、柘榴」
俺はいまだ店の中に入ろうとしない柘榴を呼ぶ。
柘榴はじっと店の外観を眺めていたようだが、俺が呼ぶと少しのためらいのあと入ってきた。
「どうも」
柘榴が会釈する。それだけで春ちゃんの顔が赤くなる。
「あ、あの時は、ありがとうございました!」
「いや、別に」
コホン、とマスターがわざとらしく咳をした。
そこで今だに俺たちが立ちっぱなしなことに気付いて、彼女がはっとする。
「ああっ、すみません。お二人様、こちらへどうぞ」
窓際の席へ通された。珍しく今日は人が少ないなと、今更に思う。
ちょうどお茶を飲むのにいい時間。いつもならもっと賑わっているだろうに。
「今日はずいぶん人が少ないんだね」
「そうですね。たぶん曇りだからですよ。どんよりしてて、あんまりいい気分じゃないもの。でもおかげでこうしてゆっくりお礼が出来ます」
「お礼?」
柘榴が聞いた。お礼ならさっき聞いたといいたげだ。
「はい。お好きなもの、頼んでください。ささやかですけど、お礼です」
にっこりと春ちゃんが微笑む。可愛いなあ。
柘榴は春ちゃんの笑顔に興味をひかれた様子もなく、手渡された品書きを睨んでいる。
「……珈琲を、一つ」
「はい」
「あ、俺も」
「はい。珈琲お二つですね」
「あと、ビスケットを」
柘榴が驚いたように俺を振り返る。別に嫌がらせで頼んでいる訳でもないのに、そこまで警戒されると少しばかり腹が立つ。
「かしこまりました。以上でよろしいですか?」
「うん」
俺にやや遅れて柘榴が肯く。どことなく居心地が悪そうだ。
「では、少々お待ちください」
微笑みを残して彼女はカウンターの方へと去っていく。
その背中を見送っているとマスターと目が合った。相変わらず渋い顔だ。
と、微かな溜息が聞こえた。
「柘榴?」
「ああ、いや……なんでもない」
「どうした、歯切れが悪いな」
珍しい。とは思うが言葉にしない。
「……もしかして、何か嫌な予感でもするのか?」
俺は声をひそめる。
店に入るのをためらった時から、そんな気はしていた。
柘榴の嫌な予感は当たる。それは彼と十年以上一緒に過ごしていて学んだ絶対だった。
「そうじゃないんだ。自分でもうまく言えない」
「悪いことじゃないのか?」
「……少なくとも、今は」
ふむ、と俺は椅子の背に身体を預ける。キッと小さな音が鳴った。
かぐわしい珈琲の香りが漂ってくる。春ちゃんが盆にカップと菓子を載せてかろやかに近づいてきた。
「お待たせしました。珈琲とビスケットになります」
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
花が咲くような微笑みだった。ちゃんと柘榴だけじゃなく、俺にも向けてくれるのが嬉しい。
もしかしたら本当にお礼がしたかっただけで、他の意味はなかったのかもしれない。そんなことを考えて、こっそり胸をなで下ろす。
「ふうん、いい香りだな」
「美味いぞ。ビスケットもな」
白いクリームが添えられた素朴な菓子を勧める。
柘榴が何とも言えない顔をしたが、ビスケットを一口かじると納得したように微笑んだ。
「ああ、美味いな」
「だろう」
作ったのは俺ではないが、なんとなく胸を張る。視界の隅でマスターが何か言いたげにこちらを見ていたが、気付かなかったことにした。
時折会話をしながら、そして心地よい沈黙に身を任せながら、緩やかに午後の時が過ぎていく。
何人かの客が出たり入ったりして、かろやかに動き回る春ちゃんを見ていた。そのうちの何回かは彼女が振り返って、俺と目が合うのがわかるとにこりと笑ってくれた。
「いい子だな」
ぽつりと柘榴が言った。
当たり前だと胸を張ろうかと思ったがやめた。
最後のビスケットをかじる。甘さを控えたはずのそれが、少し甘みが増しているように感じた。
「……いい店だろう?」
「ああ、そうだな」
珈琲の最後の一口を飲み干して柘榴が言った。それにつられて俺も珈琲の最後の一口を飲む。ビスケットの甘さと珈琲の苦さが名残惜しげに口の中に広がる。
俺と柘榴は、どちらからともなく立ち上がった。
「お勘定、ここに置いておくよ」
奥に控える春ちゃんに向けて声をかける。彼女は慌てた様子で俺たちの元に駆け寄ってきた。
「そんなお代なんて……お礼なんですから」
「うん。だからこれは俺の分の珈琲代」
「けど……」
困ったようにマスターを振り返った。
俺は渋い顔をしている彼に向かって言う。
「女の子を助ける立役者は一人で充分さ」
にやりとマスターが笑った。
思わず柘榴の表情を伺ってしまって春ちゃんが真っ赤になる。
「あの、また……いらしてくださいね」
「もちろん。な、柘榴」
「……ああ」
幾分、渋々といった様子だったが、柘榴がそう言うと春ちゃんが真っ赤な顔で嬉しそうに微笑んだ。
白い頬が甘い果実みたいに赤く色づいて、とても可愛かった。
季節の変わり目になるといつも体調を崩す。
昔病弱だった名残か、単なる不精なのかはいまだに判別がつかないが、丁度いいのでそのころにかかりつけの医者に行くようにしている。
「今度はどこだって?」
父親と同年代の先生が笑った。子供の頃から見てもらっているおかけで、家族とまでは言わないが、親戚の小父さんみたいな人だ。
「足首と……あの喉、ですかね。明け方に少しむせてるらしいです」
「らしい?」
「と、同居人が」
ああ、と先生が肯く。柘榴は医者や病院が苦手で、いつも俺が病院に行くのについてくる癖に中に入らない。先生は家に往診にも来るので、面識自体はあるが今日も病院に来るまでついてきたことは知らないだろう。
その柘榴はいつも通り、向かいにある池で鳥に餌をやったりして時間を潰しているだろう。一度、その瞬間を窓から見たが、むかつくことに絵になっていたので、丁度傍にいた看護婦兼助手である先生の奥さんにあれが同居人ですと見せびらかさなかった。だってそれで見とれられたりしたらなんか悔しいだろう。
「足首のは単なる冷え性だろうね。最近冷え込んできたし」
「……はあ」
「喉の方も空気が乾燥してきたからだろう」
そう言いながらも医者は丁寧な診察を始める。毎年変わらない。いい加減少しはおざなりになってもいいのにと思わなくもないが、そうならないところがこの医者のいいところで、俺の父親から信頼されている由縁なんだろう。
「うん、喉の奥が少し赤くなっているようだが、しばらくすれば治るだろう。念のため薬を出そうか。すぐに必要なくなると思うがね」
「はい」
そんな風にのんびりとした診察が終わって、あとは薬をもらって変えるだけというときに、医者が不意に俺の腕を取った。
「しかし、夏が終わったというのに君は本当に白いな。外に出てるのかい?」
「はあ……まあ」
「日に焼けない肌というわけでもないだろう。子供の頃はずいぶん浅黒くなっていたじゃないか」
「仕事柄、あまり外に出る方ではないので」
頭に一応、がつく仕事だ。裕福な家の三男坊に生まれたおかげで、特に家を継げだのと言われずに今日まで平穏に過ごしている。おまけに長男次男はとても優秀で、多少病弱で頼りない三男は働き手に数えられないというわけだ。それでも最近は、知り合いの誘いで書き物なんぞをして多少の金は稼いでいるが。
「それにしても、どうして急にそんなことが気になられたんです?」
「人が蝋になるという奇病が確認されたのだよ」
「は?」
あまりの唐突な話題に、あんぐりと口を開けてかなり間抜けな顔をしてしまった。
「原因はよくわからんのだがね、とにかく人の肌が蝋になっていてな。肌が妙に白くなったと思い、よくよく触ってみたら蝋だったと。蝋になっているのはあくまで肌の一部がということらしいが、治し方もわからず、しかも見守っていたら自然と治ったんだとか」
「……それはまた奇妙な話ですね」
呟きながら、病院に来るまでの道すがら、偶然擦れ違った春ちゃんのことが頭をよぎった。今日は丁度、千世の定休日で久しぶりに会う友達とお芝居を見に行くんです、と笑っていた。
どこか無理をしているように、前より色白になった顔を赤らめて。もともと白い娘だったが、前に見たときより白く見えて、体調が悪いんじゃないかと心配したが、大丈夫だと言われてしまった。まあ、声や立ち姿は健康そのものだったし、せっかくの楽しみに水を差すわけにもいかないので、そのまま別れたが。
「気をつけて」
と、珍しく柘榴が自分から声をかけていた。
あれには何か意味があったのだろうか。
「……まあ、君のように図太い人間はそうそうそんな奇病にはならんだろうがな」
先生が豪快に笑った声で、意識が引き戻される。
「それ、どういう意味ですか」
「何人か患ったのは皆一様に内気で大人しい性情の者だったという話だ。君のように小心者のくせにおおざっぱで暢気なら、まず縁がないだろう」
「非道いな、こんなに繊細な若者を捕まえて何をおっしゃりますか」
ふてくされてそう言ったら更に笑われた。
医者としての腕も認めているが、むしろこういうところが俺は好きなんだろうなあと、笑っている先生を見ながら思う。そしてこ十分の一でいいから柘榴も表情豊かにならないだろうかと思い、豪快に笑う柘榴を想像したところでやめた。恐ろしく似合わなかった。
人気のない静かな木陰で、柘榴は微睡んでいた。
さわさわと涼しくなった風が柘榴の漆黒の髪を揺らす。人形のように美しい柘榴。その肌に不意に触れてみたくなった。まさかとは思うが、蝋のような手触りがするのではないかと。どこぞの遊女なんかよりもずっときれいな肌が、ちゃんと人並みに温かく柔らかいのかを確かめたい衝動に駆られた。
風が凪いで、沈黙が辺りを包む。
大通りから離れたこの辺りは夕刻になると、驚くほど静かになることがある。たとえば、今この瞬間のように。
無意識のうちに伸ばしていた手が視界に入る。
柘榴の白い肌。
ざあっと、風が樹を震わせた。思わず頭上を見上げて、伸ばしかけた手が止まる。
「……馬鹿か、俺は」
小さくため息を吐き出す。
これでは、柘榴が人ではないと恐れた人たちと変わらない。事実、出生を考えると柘榴は人ではないということになるんだが、そんなこと気にしていなかったし、気にしないでいられると思っていた。人ではなかった者が母親でも、柘榴は柘榴だ。目の前にいる柘榴をありのままに受け入れればいいのだと、それが出来ると思っていた。
大体において、それは出来ている。出来てはいるが、こうして不意に、一瞬の隙をつくように懐疑が生まれてしまう。針の一本のようなほんの小さな疑心が。
「柘榴」
そっと名を呼ぶと、柘榴が静かに目を開ける。硝子玉のようだった眼が、どんな風に感情を映すようになったか、俺は覚えている。
「ああ、終わったのか」
「悪いな、つい話し込んでしまった」
「あの御仁はお前と話すのが楽しくて仕方ないんだろう」
「柘榴も一度ゆっくり話してみればいいだろうに。面白い人だぞ。先生のことは嫌いじゃないんだろう?」
起き上がる柘榴に手を貸しながら尋ねる。
柘榴は眉をひそめ、珍しく厭そうな顔をした。
「あの御仁は嫌いじゃないが、医者には予感が付きまとうからな」
「予感? いつもの嫌な予感か?」
柘榴は首を横に振る。
「少し違う。医者は病人を診る者だろう。そしてそのうちには助からない者もいる。そういう予感だ」
「ああ……」
なるほど、それで厭そうな顔をしたのか。誰だって人の死を感じ取りたくはない。
「そういえば、予感で思い出したんだが」
「なんだ?」
どちらともなく並んで歩き出して、大通りへ向かう。丁度この道と大通りが交差する辺りで、春ちゃんを見かけたんだなと思い至った。
「春ちゃんと別れるとき、気をつけてと言っただろう。もしかして何か感じたのか?」
「……ああ、あれか」
そう言ったきり、柘榴がしばし黙る。不審に思って顔を覗き込むと、意を決したように口を開いた。
「確かに、予感はした」
「嫌な予感か」
「……そうだな、たぶん」
「ずいぶん曖昧だな」
柘榴がまた言葉に詰まる。
言うのをためらっているというわりは、不確かだからうまく言えないという感じだった。やがて溜息をついて、吐き出すように柘榴が口を開いた。
「俺にもよくわからないんだ。……いつもは周りからまとわりついているように感じるだが、あの娘は中から染み出してくるように感じた。もしかしたら、気の病にかかりかけているのかも知れない」
「気の病って、春ちゃんが?」
あんなに元気に笑う娘が、気を病むなんてことがあるだろうか。
「ああ、だから自分でも気のせいなんじゃないかと思うんだ」
「お前の予感は良く当たる」
「……そうだな」
誰にだって悩みはある。
表でどんなに笑っていても、心が泣いていることなんかいくらでもある。
「今度また、千世に行こう」
「……ああ」
柘榴は少しためらったが、幾分か緊張の解けた声でそう言った。
千世の扉を開けると、カランカランと音を鳴らすベルだけが響いた。
「……おや?」
いつもなら、春ちゃんがどんなに忙しくてもベルの音とともに声をかけてくれるのだが。
「いらっしゃい」
やや遅れて店主の低い声が聞こえた。見ると珍しくカウンターの中から出てきて、客に給仕をしている。
「春ちゃんはお休みかい?」
「ああ、病気だそうだ」
渋い顔のまま案内された席に座る。とりあえず珈琲を二つ頼むと、カウンターに戻ろうとする店主を引き止めた。
「風邪か何かか?」
「詳しくは聞いていない」
「……酷いのか?」
苦い顔をして店主が息を吐く。
あからさまではないが、店にいる客は皆、このやりとりに耳を傾けているのがわかった。微かなレコードの音が店に沈黙を運んでくる。
「当分、出られないそうだ」
息を飲む気配が数カ所から聞こえた。店主がもう一度息を吐いて、首を横に振る。そうしてカウンターの中へと戻ってしまった。
「……当たったな」
柘榴に向かって小さく呟く。
店内の客はそれぞれの会話に戻ったようだ。さざめくようなざわめきが帰ってくる。
「ああ」
柘榴はそれきり黙り込んでしまった。
やがて苦い顔をしたままの店主が珈琲を運んでくる。硬い音を立ててそれらが机に置かれる間、会話は一切なかった。今までにも何度か、春ちゃんが休みをもらっていたことはある。なのに今この場に流れる沈鬱な空気。彼らは気付いているのだ、あの元気な少女が何らかの重い病にかかってしまったことを。
俺と柘榴は確信を持って。
店主は本人かその家族からの話を聞いて。
そして客たちは、そんな俺たちの態度から感じ取って。
店主が再びカウンターに戻ったのを見送ってから口にした珈琲は、いつもより苦い味がした。
「……様子を、見に行くか?」
柘榴がようやく口を開いたのは、珈琲も飲み干しそろそろ会計をするかという頃合いだった。いつも千世で過ごす時間の半分ほどしか経っていない。
「春ちゃんの、だよな」
「それ以外に何がある」
心外だと言わんばかりに、柘榴の眉がひそめられる。それは些細な変化ではあったけれど、こちらは三歳からの付き合いだ、見逃すはずがない。
「いや、悪かった。お前がそこまで積極的に彼女に関わろうとするとは思ってなかったんだ」
「……良昭が謝る必要はない。実際、関わらずに入れるものなら出来る限り遠慮したい気分ではある」
「なら」
無理をしなくていいんだぞ、という言葉は続けられなかった。
「俺だって心配ぐらいはする」
そう、睨むように見つめられると言葉が出ない。一瞬、言葉が出なくなるほど感動した。あの柘榴が心配していると口にするなんて。母が病に倒れたときは、無表情は変わらなかったが決して母のそばから離れようとしなかったりと、俺たち家族に対してなら時折そういった態度は見せていた。ようやっとそれが家族外の人間にも向くようになったか、とまるで父親のような感慨にまでひたりそうになった。
が、ふと気付く。
「……一応聞くが、もちろん心配しているのは春ちゃんだよな?」
俺の疑問に柘榴は一瞬目を見張る。
それからそっと苦笑した。
「正確には、彼女の心配をするお前の、心配だ」
阿呆か。
思いっきり叫んでやりたいところだったが、場所が悪い。あとで説教してやる。
とりあえず今は、諸々の不満を溜息でやり過ごし、勘定に立つ。店主に春ちゃんの住所を聞いておかなければ。
わずかに胸に芽生えた安堵には、見ないふりをして。
彼女の家はそう遠いわけではなかった。
尋ねて、千世で幾度も顔を合わせていたこと、そして病に伏せっていると聞いたので見舞いたいと言うと、すぐににこやかに案内された。ちょうど行く途中にあった父親愛用の和菓子屋で買った土産と、とっとと自分の身元を証したことが役に立ったらしい。煩わしいと感じることの方が多いが、こういうときには便利だ。
「春や、久瀬さんが見舞いに来て下さいましたよ」
ふすまの向こうへ、春の母親が声をかける。ややおいて、どうぞという声がかかった。彼女の声に違いはなかったが、やはりいつもの明るさはない。
「こんにちは、春ちゃん。ごめんね急に」
「いえ……柘榴さんも、ありがとうございます」
いつもとは違う白い着物に暗い色の羽織を肩にかけて、布団の上に座している春ちゃんはとても弱々しく見えた。今にも倒れてしまいそうなほどに憔悴している。部屋は閉め切られていて、あかりは小さな灯しかなく薄暗い。そのせいだろうか、彼女の肌はまるで血が通っていないかのように真っ白だった。
「お母さん、少しお二人と話がしたいの。体調が悪くなったらすぐに呼ぶから」
「……ですが、春」
「お願い」
弱々しい声で、しかし意志を曲げるつもりはないと春ちゃんは訴える。
やがて母親が折れた。俺と柘榴にくれぐれも無理をさせないように釘を刺し、隣の部屋にいますと言って彼女は離れていった。
「良昭さん」
母親を見送ってから、春ちゃんが改めて俺を見た。人形のように白い顔。
「人が蝋になるという奇病が確認されたのだよ」
先生の声が甦る。
まさか。
柘榴が春ちゃんの前に座った。春ちゃんが柘榴を見つめている。その目はいつかのように照れが滲んでいたりは全くなく、静かな波紋一つない水面のように静かだった。
「……触っても?」
静かに柘榴がそう言った。
春ちゃんがゆっくりと肯く。
柘榴の手が動いた。
壊れやすい陶磁器の人形に手を伸ばすように、その手が春ちゃんの頬へと触れる。
滑る。
なめらかに動きだった。
「柘榴……」
触れるときと同様に、静かに手が離れる。
春ちゃんは、それをじっと見つめていた。
「蝋、だ」
どうして――と、そのたった一言すら喉に絡んで出てこなかった。
だが、俺の動揺もわかっているように、春ちゃんはそっと微笑んだ。見馴れた笑顔ではない。けれども見たことのある笑顔。
あれは。
「蝋になる、という奇病が流行っていると言われました。治す方法も見つからないと」
春ちゃんの声がする。彼女はまだ微笑んでいる。
悲しげで、なのに優しい。
そうだ、あれは。
聖母だ。
兄から聞いた、異国で崇められている聖なる母。一度だけ、その肖像を見たことがある。優しげな微笑みを称えた美しい姿。胸に抱いている幼子はのちの聖人なのだという。けれどどうしてかそれが、とても悲しい絵に見えた。
「でも私は、病気なんかじゃないって思うんです」
か細いけれど凛とした声。その意味を掴み損ねて、俺は彼女を凝視する。
「聞いてくれますか。……ずっと、誰かに話したかった。でも話せる人がいなくて。良昭さんなら――良昭さんと柘榴さんなら、聞いてくれるって思ったんです」
今日、二人が来なくても、彼女から文を書くつもりだったと、そう告げられる。
「どうして……?」
ようやっと身体が動くことを思いだし、柘榴の隣に腰を下ろす。
春ちゃんは、ふふ、と楽しそうに笑った。
「恋を――したんです」
彼女の家は、今でこそ商家だが、以前はやんごとなき血筋に連なるとして尊重されていた家系だったという。血が薄れた現在でも、その誇りは強く受け継がれている。
けれどもう意味のなくなってしまった誇りが、納得いかなかったのだと彼女は言う。
「だから家中の反対を押し切って、千世で雇ってもらったんです。友達とあちこち出かけてみたり」
そんな中で、ある人物と出会った。
「柘榴さんとは正反対で、ぶつかったら相手の方が倒れちゃって。持ってた本はあちこち散らばるし、本人は必死で眼鏡を探しているし、もう可笑しいんだか可愛いんだか思わず笑っちゃって」
彼女の恋の相手は下町に住む書生なんだという。始めは立派な屋敷に住まわせて貰っていたらしいが、そこの主人と揉めて屋敷を飛び出し、そのまま下町暮らしをしているのだと。
「聞いてみると、私なんかとは全然違う苦労ばっかの日々を過ごしてるんです。なのにあの人笑ってて」
そうして型破りなお嬢様と、貧乏な書生の恋は育まれていった。
しかし彼女の家がそれを許すはずがなかった。両親は今は我儘放題でもいずれは落ち着き、家の名に恥じない相手に嫁ぐのだと、そう信じて疑っていなかった。なのにある日突然、血筋も何もない身分どころか職すらない、そんな相手と結婚すると言い出した。
「それで、あの人に会うのを禁じられて……あの人はあの人で手切れ金なんか渡されて身を引いちゃって。非道いと思いませんか、あの人、私が駆け落ちでも何でもしようって思って家を抜け出したら、もぬけの殻なんですよ。勝手に一人で悩んで勝手に決めちゃって……」
彼女の声が震えて、頬を涙が伝う。
その涙は、人を灯した蝋が溶けるのに良く似ていた。
「それで悲しくて部屋に籠もってずっと泣いていたんです。さすがに心配した母が様子を見に来ると、もうあちこち蝋になっていて」
「じゃあそれは、失恋の悲しみが原因なのかい?」
今まで口を挟まないでいたのだが、思わずそう聞いてしまった。
すると大きく目を開いた春ちゃんが、すぐにくすくすと笑い始めた。
「え、俺、なんか可笑しいこと言った?」
「違うんです……ふふ、やっぱり良昭さんたちに話して良かった」
喜んでもらえるのは嬉しいが、春ちゃんが何に笑っているのか俺にはさっぱりわからない。
「私、やっぱりどこかで怖がってたんです。あの人とのこと、誰にも認められないんじゃないかって。だからあの人がいなくなったときも、悲しかったけど……ああ、やっぱりって思ったんです」
でも良昭さんも柘榴さんも否定せずに聞いてくれた、それがとても嬉しいんです、と今にも泣きそうに春ちゃんが言う。
「……まあ、うちは成り上がりみたいなもんだし、俺はお気楽三男坊で家がどうの世間がどうのと言うのには疎いから」
それに何より、春ちゃんの恋の相手が柘榴でなかったことに安堵していたりして、柘榴でなく真っ当な人間であるというならもう誰でもいいという気分であったりもして。
後ろめたさでだらだらと言い訳を口にしても、春ちゃんは楽しそうに笑っていた。
「そういう良昭さんだから、話そうと思ったんです」
にっこりと、俺が知っている春ちゃんの笑顔と、俺の知らない笑顔とを足して割ったような、そんな風に彼女が笑う。はにかんで、でもどこか泣きそうで、なのに暖かな。
「その書生のことはもういいのか?」
ポツリと柘榴が聞いた。というより独り言を呟くようだった。春ちゃんを真っ直ぐ見ているようで、どこか遠くを見ていた。
「……いいんです。置いていかれちゃったし」
「もしかしたら事情があったのかもしれない」
「でも――――」
珍しく、本当に珍しく柘榴が良く喋る。それも他人と深く関わるように。
唖然として柘榴を凝視してしまった。春ちゃんもまた、無口な柘榴に一番の核心をつかれるとは思っていなかったのだろう、途惑いの表情で柘榴を見ている。
「本当に手が届かないところへ行ってしまったのなら、確かに諦めるしかない。だが、まだ間に合うかもしれない。悲しみで蝋のように固まってしまうほどに想っているなら――――諦めるべきじゃない、と俺は思う」
本当に手が届かない相手。あの日、花とともに逝ってしまった一人の女を思い出す。
柘榴の母親。人ではない、花を纏った美しい女。柘榴と巡り会った頃にはもう彼女は死んでいて、柘榴の伸ばした手は始めから届くことはなかった。
もしかしたら、と思う。
恋人に置いていかれた春ちゃんと、母親に置いていかれた自分とを重ねているのかもしれない。遠い目で見つめていたのは、去ってしまった母親の姿なのかもしれない。
「春ちゃん、俺もそう思うよ。その人の居場所は俺が責任を持って探すから、まだ諦めないで欲しい」
きゅ、と膝の上に置かれた白い手に力がこもる。春ちゃんの表情が始めて悲しみに歪んだ。
「でも……私――」
「俺はね、いつもいらっしゃいませって明るく迎えてくれる春ちゃんが好きなんだ。また君に笑って欲しい。もし本当にその人に置いて行かれたっていうんなら、もう手の届かないところに行っちゃったっていうんなら、その時は俺のところに来なよ」
はっと顔を上げて俺を見る。
涙の浮かんだ、大きな瞳。
「俺は今、柘榴と二人で離れに住んでいるんだけど、猫もいるし、うちの家族はみんな柘榴で慣れてるから一人増えたって誰も驚いたりしないよ」
いや驚くだろう、という柘榴の呟きは聞こえなかったことにする。
「何より、春ちゃんみたいな可愛い娘だったらきっとみんな歓迎するって。母さんなんか常々女の子が欲しい欲しいって言ってたんだから」
それは十年以上も前の話じゃないかという呟きもやっぱり聞こえなかったことに……しようとしてやめる。
「なんだ、柘榴は春ちゃんにうちに来て欲しくないって言うのか?」
「そんなことは言ってない」
むっとして柘榴が食いついてくる。何か言い返してくるかと思ったら、その前に春ちゃんの笑い声が飛び込んできた。
泣きながら、楽しそうに笑う春ちゃんを見て、本当に可愛いなあと思う。
この娘をどこぞの書生なんぞに渡すことを考えると少しばかり気にくわないが、たぶんそれが彼女にとっても一番幸せだろう。
冗談のように指切りをして、その日は帰った。
白くて少し粉をふいている指はなめらかで、それでも暖かかった。
後日、父親に頼み込んで書生の行方を調べてもらい、どうせならと春ちゃんから預かった文を直接渡しに行った。確かに女の子とぶつかって荷物をぶちまけ眼鏡も見失ってしまうような、頼りがいのない弱々しい男ではあったけれど、文を読み終わり顔を上げたときには確かな決意が見られたので良しとする。
それから彼は、外見とは裏腹の行動力を見せて、さっさと春ちゃんを攫っていきやがった。
大事な給仕係をなくした千世はしばらく
灯(が消えたように静かだったが、しばらくすると新しい女の子が入りまた賑やかになった。俺は以前ほど熱心に通うことはしなくなった。それでも、どんよりと空が曇った日には何となく千世に足が向く。
そうして、
「柘榴、春ちゃんから文だ」
「良かったな」
離れに入るなり、文を広げて見せた俺に柘榴が苦笑を返す。見舞いに行ったときの、遠い目の理由を俺はまだ聞けていない。聞かなくてもいいかと最近は思うようになっていた。
いつか、遠い日に、柘榴の方から話してくれればいい。
それは願いというより祈りで。
「良くなんあるか、あの男からもよろしく言われたんだぞ」
「……良いことじゃないか」
いつものように窓際で頬杖をついていた柘榴が、その白い手をこっちに伸ばすので文を渡してやる。
「くそっ、やっぱり居所なんて教えずに、うちで引き取れば良かった!」
一人でそう叫んでも、文を読み始めてしまった柘榴からの返事はない。渡したばかりの文を奪ってやろうかという衝動に駆られたが、子供じみているのに自分で気付いてやめる。代わりにもう一つ手に持っていた数日前の号外を開いた。
『蝋化する謎の奇病、未だ原因不明』
大きくそう書かれてはいるが、四十九日もしないうちにこの話は忘れられるだろうなと思っている。
悲しみが人を蝋にするのだ。悲しみはいずれ癒える。
それに悲しみで死ぬ者はいないのだから。
まあ、それでも、先生ぐらいには事の顛末を教えてやろう。きっと目をまん丸く見開いて、食い入るように聞いてくれることだろう。まだまだ冬の到来には早いが、忘れないうちに行っておこうか。
ぱさりと音がして顔を向けると、柘榴が文を読み終えたところだった。何度も何度も最後の一文に眼を走らせている。満足したのか一度目がとまり、文を持つ手を見つめる。
声に出さず何かを呟いて、やわらかな微笑を浮かべた。とても穏やかで暖かい微笑みだった。
『柘榴さんの手が、届くことを祈っております』
それは、俺の気のせいだっただろうか。
柘榴の唇がかたどった音のない言葉。聞こえないはずなのに、聞こえた。
届いている、と。
そうして俺は、
窓から甘えた声で通い猫が入ってくるまで、微笑みながら文を眺める柘榴を見つめていた。
柘榴が猫の頭をなでる。俺も笑う。
窓からは冷たくなった風が入り込むが、まだ窓を閉める気にはなれない。俺は風の当たらない壁際に座って、積んであった本を適当に開く。猫が鳴いた。
やがて猫は、柘榴の膝で穏やかな寝息を立てるだろう。
了。