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 ―――花が、散っていた。





紅花夜話



 柘榴がうちに引き取られたのは、俺が三歳になったばかりのことだったらしい。
 変わり者と評判だった父が、占者に「柘榴が与えたものを大切にしなさい」と言われ帰ってきてみれば、庭に植えてあった柘榴が狂い咲き、その根本に一人の子供が立っている。普段、人の言うことなど耳を貸さないというのに、面白いの一言でその子供引き取ったんだとか。身体が弱くて家にこもりがちだった俺の遊び相手にちょうどいいと思ったのだろうと兄たちは言うが、どうだかなと俺は思う。
 父さんは変わり者で考え方もおかしいが、その分自分に正直だ。占者の言葉と、それに応えるように狂い咲いた柘榴と、そしてその根本にどこからともなく現れた子供と、それらがもたらす結末が見たかったんだろう。
 柘榴は始め、ひどく無口だったという。彼はとてもいい着物を着てたから、どこか立派な家の子供ではないかと問いかけても、柘榴はまっすぐに見返すだけで何も言わなかったらしい。ただ名前を聞くと、一言、「柘榴」とそう言ったと聞いている。
「なあ、柘榴」
 隣で通い猫の腹を撫でてる彼を呼びかけると、彼は穏やかな顔で振り向いた。ずいぶんと表情がやわらかくなったものだと思う。幼いころの朧気な記憶の中では、いつも仏頂面をしている。ぎこちなくでも微笑むようになったのは十年前ぐらいか。
「なんだ、良昭。お前も撫でるか?」
 ひょいっと、三毛猫の首をつまんでこちらに差し出す。反射的に受け取って、ふかふかの毛並みをついつい撫でる。時折我が家、というか俺と柘榴が住む離れにやってくるこの猫は、野良のわりにいい毛並みをしているから、もしかしたら誰かが手入れしているのかもしれない。安心しきった様子で猫が鳴いた。
「って、猫じゃなくてな」
「なんだ違うのか。そのわりには嬉しそうだな」
 頬が緩んでいたらしい。いや、猫は好きだ。好きだとも。
「だからな、柘榴」
「また俺の親のことか?」
「へ?」
 言おうとしたことを先に言われて、思わず変な声が出る。
「なんだ当たったのか」
「……いや、まあ」
「お前がそんな顔をすると、たいてい親の話題だ。俺かお前の、な」
 どんな顔だ、と言いたいが、年の離れた兄たちからも考えてることが顔に出ると太鼓判を押されてる。それになんとなく想像もつく。
 情けない顔をしているのだろう。
「親のことは覚えてないと、何度言っても良昭は俺に聞くんだな」
「……別に、柘榴が嘘をついているとか考えてる訳じゃないからな」
「そうなのか?」
「そうだ!」
 俺はただ、不安なのだ。兄たちより身近に育った柘榴が、いつかふらりと消えてしまうんじゃないか。いつか柘榴の本当の家族が迎えに現るんじゃないか。
「柘榴……お前は親が恋しくはないのか?」
 だからついこんな言葉が口をつく。
「生きているかもわからない何の思い出もない親が?」
「それでも親は親だろう」
 膝の上で寝ころんでいた猫が、俺たちの空気を読んだのか居心地悪そうに身をよじる。顔を上げて俺と柘榴を見比べた。
「……そうだな」
 さわり、と冷たい風が吹く。まだ春を迎えたばかりだ。
 猫が出入りできるようにと開け放していることが多い窓を、柘榴が見上げていた。
 黒い髪が風に揺れる。
「会えるものなら、会ってみたいかもな」
 そう言った柘榴の横顔は、笑うことをしなかった幼いころの表情と似ていて俺を余計に不安にさせた。


  柘榴は何も知らなかった。
  笑うことも怒ることも泣くことも。
  人間らしいことは何も。
  柘榴はとても美しかった。
  男も女も子供も年寄りも、
  柘榴を見て溜息をついた。
  そしてそのうちの幾人かは
  人間じゃないみたいだと畏れた。

  実際、似たようなものだった。


 親に使いを頼まれた帰りだった。俺と柘榴は日がな一日ごろごろしているので、よく使いを頼まれる。曰く、それぐらいは役に立て。
 俺は黄昏時の道を柘榴と並んで歩いていた。
「へえ、奇妙な事件もあるもんだな」
 もらったばかりの号外を見て声を上げた。柘榴が横目で興味を示したので、紙面を指差して俺は続ける。
「行方不明になった若者が骨になって発見されたんだそうだ」
「それのどこが奇妙なんだ?」
「いやいや、それが呉服屋の息子でな、特注の布地を持っていたとかで本人だと特定出来たらしいんだが。ほんの一週間前までは普通に店にいたらしい。それが骨だ。奇妙だろう」
 柘榴が俺の持つ号外を覗き込む。
「……奇妙というより奇怪だな、それは」
 まったくだ、と俺も頷く。
「ん、まだ続きがあるじゃないか」
 ざっと号外に眼を走らせていた柘榴が言う。柘榴は俺より文を読むのが早い。頭がいいのだ。
「同じように骨になった死体が見つかってるらしいぞ。骨になってるわりに服や装飾品はまったく傷んでない奴が。身元はわからないが、共通点が多いから関わりがあるんじゃないかと書いてある」
「へえ。それはまた奇妙な」
「……首を突っ込むなよ」
 呆れたような低い声で言われて、俺は肩をすくめる。
「確かに俺は妖怪だの怪談だのが好きだが、現実に起きた事件に首を突っ込めるような立場でもないさ」
 俺は言いながら、改めて号外に目を落とす。柘榴のまとめ方は的確で、それ以上のことは号外には書かれていなかった。
「良昭、足元を見て歩け」
「おっと」
 あやうく溝にはまるところだった。
 柘榴にたしなめられたし、あとは家に戻ってゆっくり読むかと、号外から目を上げると、目の前には廃屋の入り口があった。子供のころに忍び込んで遊んだこともある懐かしい場所だ。柘榴がうちに来てから俺の身体は見る見る丈夫になり、病がちな子供から悪戯坊主になったわけだ。……まあそれでも、年中風邪をひいたりだ何だと忙しいが。
 そういえばいろんな所に行ったが、柘榴が入りたがらなかったのはここだけだった。柘榴は入ってこないし、家から多少離れてることもあって次第に来なくなった。
「柘榴、覚えているか?」
「何をだ」
「この屋敷、お前と何度かは入り込んだだろう」
 柘榴はぼろぼろの門を見上げて、しばらくしてから得心がいったように頷いた。
「ああ、お前が池に落ちた」
「……どうしてそういうくだらないことを覚えているんだ」
 そういえば落ちたかもしれない。いや落ちた。
 嫌な予感がするから入るなという柘榴の言葉を聞かずに入って、見事に伸びた雑草で隠れていた池に落ちた。長年放っておかれて繁殖した藻にや泥に身動きが取れなくて本気で溺れ死ぬかと思った。柘榴の予感は当たるのだ。
 思い出したくない記憶に俺がうなっていると、柘榴がひょいと門から中を覗き込んだ。
「さすがに、お前が落ちた池は見えないな」
「……草陰で見えなかったから落ちたんだ、見える訳が」
 ないだろう、という前に柘榴が俺を手招いた。
「良昭」
「なんだ池が見えたか?」
「違う、骨だ」
 いわれたことが一瞬理解できない。
 ほね?
 骨、だと?
「どこだ」
 覗き込めば、それが聞くまでもないことだとわかる。門から屋敷へ向かうように草が踏みならされている。その獣道の先、服を着た白い骨が無造作に転がっていた。
「……骨、だな」
 呆然としている俺の隣で柘榴が骨に向かって歩き出した。
「お、おい!」
 慌てて追いかける。完全に屋敷の中に入ってしまえば、少し離れたところに濁った池が見えた。視点の高さの違いか、溺れ死にかけたそれはひどく小さく見えた。
 などと感慨にふけってる場合でもない。前を見れば柘榴が骨の前にしゃがみ込んでいた。
「おいおい柘榴、何をするつもりだ……ん?」
 柘榴の上から骨を見下ろして、妙に見覚えがあることに気付く。
 骨……をじっくり見るのはさすがに肝が冷えるので、なるべく頭らしき部分から目をそらしながら死体を凝視する。
「あ、そうだ、その杖だ」
「杖? これか?」
 ひょいっと柘榴がこともなげに杖を持ち上げる。
「ば、馬鹿、死体の物をそんな手軽に!」
 慌てると、柘榴は肩をすくめて杖を元の場所に戻した。
「この杖がどうしたんだ?」
三芳(みよし)のところの長兄だ。三月ほど前に石段から落ちて足を怪我して以来、ずっとこの杖を使っている。一度、擦れ違っただけだが、この通り立派な杖だったんでな……だが」
 長兄が我儘を言って職人にわざわざ作らせたのだと、耳元で三芳がささやいたのを思い出す。三芳とはわりと長い付き合いで、その長兄とも何度か顔を合わせているから、なるほど確かにそんな人だと思った。
 だがそれは。
「つい、三日前のことだ……」
 力なくそう吐き出した。頭が混乱して、その一言すらうまく言えたかもわからなかった。
「あの怪事件の続きだな」
 そんな俺とは対照的に、柘榴は冷静だった。冷たいといってもいい。知り合いの家族が奇怪な死に方をしたというのに、一切衝撃を受けていない。そういう奴だとわかっていても、言いようのない感情が胸に渦を巻く。
 不意に、柘榴が何かに気が付いた。眉をひそめて死体を見つめている。
「……甘い匂いがする」
「そうか?」
 思わず辺りを見回したが、俺は感じなかった。夏ほどではないが青臭い草の匂いがするだけだ。
「これは……花だ。花の香だ」
 言うと、柘榴は死体の首の辺りに手を伸ばした。
「おいっ」
 狼狽する俺のことなど歯牙にもかけず懐を探る。やがてその細く白い手を引くと、そこに握られていたのは紅い花片だった。
「それは?」
「見たこともない花だな」
 そう言いながら、花を睨む柘榴の表情は険しい。
 こんな風に厳しい表情をする柘榴は珍しい。もともと感情が抜け落ちていたような子供だった彼は、大人になった今でも感情の揺れをあまり表に出さないというのに。
「……柘榴?」
 こんな表情を見せるのは、いつ以来だろう。
 ああ、そういえば。
 しばらく柘榴は花片を睨んでいたが、やがて溜息をついてそれを死体の懐に戻した。
「ややこしいことは警察に任せよう。もう日も暮れる。早くした方がいい」
 何かを振り切るように立ち上がると、いつもと同じような声でそう言った。
「ああ……そう、だな」
 門のところまで戻ると、柘榴が立ち止まった。
「どうした?」
「あっちの道から行こう」
 そう柘榴が指した方は、警察とは正反対の道。行けないことはないが、だいぶ遠回りだ。
「……死体と同じ、花の香がする。嫌な感じがするんだ」
「わかった」
 柘榴の嫌な予感は当たる。俺が池に落ちたときも、次兄が橋から落ちて大怪我をしたときも、母が病に倒れたときも、柘榴の嫌な予感が当たっていた。今では家族の誰もが出掛けるときに柘榴に道を聞くぐらいだ。
 遠回りの道を足早に進みながら、俺は柘榴の横顔を見た。先刻死体の前で見せた険しい表情は欠片も残っていない。
 そのことに安堵しても、胸の奥に不安が微かに残っていた。
 柘榴の言う通りに道を避けたのだから、最悪の事態は避けられるはずなのに、どうしようもなく不安だった。


  あの庭の柘榴が落雷で折れてしまったときも、
  確かあんな顔をしていた。

 数日後、新しい号外が怪事件の三件目を伝えた。
 やはりあの杖が決め手となって、死体発見の前日から行方がわからなくなっていた三芳の長男だと判明した。
 あの日から、柘榴の様子がおかしい。
「……柘榴」
 いつものように窓際に座る柘榴に声をかける。
 しかし返事はない。開け放しの窓の向こうをじっと見つめている。人形のように整った顔を普段はあまり意識することはないが、こういうときは癇に障る。あれは人間じゃないよと囁く声が耳に甦る。
「柘榴」
 もう一度呼ぶと、我に返った柘榴が俺を見る。何で呼ばれたかわかっていないらしい。
「猫が怯えてる」
 さっきから俺の足に隠れていて可愛らしいが踏みそうになるから身動きが取れない。
 状況を理解したらしい柘榴が苦笑して、雰囲気が和らいだ。ようやっと猫が足から離れる。
 優しく微笑みかけながら手を伸ばすと、落ち着いた猫が甘ったれた声で鳴いてすり寄った。
「悪かった」
 ……そうか謝るのは猫にだけか。
 ふてくされながら座り込むと、俺は手に持っていた本を開く。新しく手に入れた妖怪談の載っている本だ。ゆっくりと頁をめくっていると、やがて太陽が沈み部屋が黄昏れ色に染まる。柘榴の膝の上で微睡んでいた猫が名残惜しげにどこかへ帰って行った。
「……良昭」
 感情を抑え込んだような柘榴の声が響く。
 嫌な予感がした。
「もう一度あの屋敷に行かないか」
「三芳の長兄が見つかった屋敷か?」
 ゆっくりと柘榴が頷く。
 俺は返す言葉が見つからなくて黙り込む。柘榴がこんな風に言ってくるなんて。せいぜいその道はやめた方がいいとか言うくらいで、少なくとも俺の知る範囲では、自分からどこかに行きたいなど彼は言ったことがない。
「……首を突っ込むなと言ったのは柘榴だろうに」
「そうだったな。わかった」
 少し寂しげにそう言って、また窓の向こうを見上げた。
「おい待て、勝手に話を終わらせるな。一人で行くつもりじゃないだろうな」
「だが、良昭」
「お前が首を突っ込むというなら俺も突っ込むぞ。三芳は良い奴だ、その長兄は……まあ、あまり良い人柄ではなかったが、あんな風に奇怪な死に方をしていい訳はない」
 (かたき)を討とうなどと考えているわけでもないが。
「別に事件の真相を調べに行く訳じゃないんだが」
「そんなことはわかってる。とにかくお前一人では行かせないからな。行くときは声をかけろ」
 有無を言わさずそう約束させ、俺は本に意識を戻した。
 戻す振りをした。目は字を追っていても、内容は頭に入らなかった。もともとそれほど良い頭ではない。一度に二つのことは考えられないのだ。
 柘榴が何をそんなに気にしているのか。
 あの時見つけた名も知らぬ花片。
 骨になる死体。
 柘榴。
 嫌な予感ばかりが渦を巻いて、まともな思考には辿り着けそうにもなかった。



 翌日は重い雲が天を覆う薄暗い日だった。
 あまり出掛けたいとは思わない。それでも柘榴の意思は曲がらなかった。
「本当に行くのか?」
「行く前に声をかけろと言ったのは良昭だろう」
 不安が滲む俺に、柘榴が笑った。
「別に一緒に来なくてもいいんだぞ」
「行く」
 きっぱり告げて、柘榴に並んで歩き出す。
 いつもは俺が柘榴を引き連れて歩くのに、今日は逆だ。胸に不安がなければ、きっと楽しい外出になっただろうに。
 屋敷は前に見たよりも重苦しい沈黙に包まれていた。天候のせいか、ここで人が奇怪な死を遂げたせいか。
 たじろぐ俺を置いて、柘榴は迷いなく屋敷の中へ入っていった。
 小さな池の前も、骨が見つかった場所も越え、ついには踏みならされた獣道すら越えて、柘榴はどんどん屋敷へ近づいていく。ざくざくと伸びた雑草を踏み分ける。青臭い匂いが鼻につく。
 ふわりと風が吹いて、唐突に甘い香りがした。
「……静かすぎる」
 柘榴が足を止める。
「廃屋なんてそんなものなんじゃないか?」
「これだけ放置されていたんだ、野犬とまではいかないが、せめて虫や鳥ぐらいいていいだろう」
「……確かに」
 来た道を振り返っても、そこには何かが居るような気配はない。今はまだ夏には程遠いが、虫の一匹や二匹いてもおかしくはないというのに。
「嫌な匂いだ」
「そうか? 確かに少し甘ったるいが、馨(かぐわ)しいと思うが」
 風に乗って届いてくるのはどうも花の香のようだ。
 そういえば、死体を見つけたとき柘榴が花の香がすると言っていたか。これがその香だろうか。
「わかるのか?」
「え、花の香のことか? そりゃ、こんなに風に乗ってくれば……そういえば、この香どこから」
 周囲を見回しても、どこにも花が咲いているようには見えない。さらにいえばこんな香の花はついぞ見たことがない。……俺が花に疎いだけかもしれないが。
「屋敷だ」
 言うと同時に柘榴は再び歩き出している。
「おい、待てよ」
 後を追うが、どうにも伸びた草に足を取られる。柘榴は気にならないのか、普通に歩くようにずかずかと行ってしまう。一人で。
 廃屋の崩れた扉をくぐって中に入り、柘榴の姿が見えなくなると急に周りの空気が冷えたような感じがした。
 何だこれは。
 ぞっと血が冷えて下がっていく。背筋を嫌な汗が伝った。
「――柘榴っ!」
 屋敷までの距離を走って一気に縮める。そんな距離でもないのに、心臓が壊れそうなほどうるさく鳴っている。
「どこだ! 柘榴!」
 ともすれば震えそうになる四肢を鼓舞するように叫んだ。
 柘榴の返事は聞こえない。
 朽ちた屋敷内は古い造りになっていて、ふすまがなくなった今は屋敷中が見回せる。
 それを見つけた瞬間、心臓まで凍りついたように、俺はかたまった。














  紅い。
  紅い花が、散っている。

 屋敷の一角を埋め尽くさんばかりの紅い花。
 むせかえるような花の香がそこから広がっていた。
 そして、女が一人。
 (あで)やかな紅い着物を着て、星も月もない闇夜のような黒い髪をなびかせ、女が花吹雪の中で舞っていた。
 柘榴が女の前に立って、それを見つめている。
「ざ……く、ろ」
 舌がしびれたように動かなかった。
 心臓が悲鳴を上げている。逃げなければと思い、柘榴を置いてはいけないと思う。どちらにしろ足は凍りついたように動かなかった。
 あれは、人ではない。
 舞い続ける女から目が離せない。そうだ、あれは人ではない。
「――人を、食ったのか」
 柘榴の声がした。冷たい鋭利な刃物のような声だった。人間らしい感情が一切消え去った声。
 違う、違うだろう。お前はそんな喋り方をする奴じゃないだろう。人間じゃないみたいだなどと言わせるな。お前は人間なんだから。
 女が笑う。嘲っている。
 誰を――俺を? ――――柘榴を?
「随分と立派に成ったもの。我に向かってそのような口を利くとは、少し長く手放しすぎたかえ?」
 大きく心臓が跳ねる。
 様々な声が頭の中でこだまする。
 あいつ、人間じゃないみたいだ。兄の声。今でこそ随分人間らしくなったが、昔は本当に人形が動き出したのかと思ったものだ。父さんも何を考えてるのか、化生を家に招き入れるなんてってな。
 違う、柘榴は人間だ。だって笑うじゃないか。怒るじゃないか。泣いたところはまだ見たことはないが、ちゃんと悲しい顔をするじゃないか。


 ――会えるものなら、会ってみたいかもな


 ぐらりと目眩がした。
 あそこにいる女は人ではない。そして、――柘榴の母親だ。
「今からでも遅くはないの。我と一緒に来(こ)ぬか?」
 女が柘榴に向かって手を差し出す。白く細い、柘榴とよく似た手を。
 受け取っては駄目だ。叫びたいのに、引きつれたように喉が痛む。声が出ない。
「柘榴」
 女の呼びかける声。舞い散る紅い花と同じように甘い。
「俺は――――」
 柘榴がまっすぐに女を見ている。
 嫌な予感がしていた。険しい顔で花片を見つめる柘榴に気付いてから。あの庭の柘榴が折れたときと同じ顔だった。唯一、柘榴と家族を繋ぐ、あの木が。
 そしてそれは、幼いころから今までずっと胸の片隅にあった不安。
 行ってしまうのではないか。消えてしまうのではないか。人ではないみたいに感情を知らなかった柘榴。人形のように美しい柘榴。平凡な俺なんか置いて、手の届かない遠くへ行ってしまうのではないか。ずっと恐れていた。
 俺は柘榴が家に引き取られた日のことを覚えていない。覚えている最初の記憶から、俺の隣には柘榴が居た。
「……く、な」
 掠れた声が喉から漏れた。喉が痛むのは、廃屋の濁った空気のせいか、それともむせるような花の香のせいか。
 柘榴の白い手がゆっくりと動く。
 強い風が吹いて、紅い花片が一面に舞い上がった。柘榴と女の姿が花片にまぎれて見えなくなる。
「っ! ――――柘榴……!」
 反射的に顔をかばって、それでも叫んだ。すくんだ足を叱咤して、花の嵐の中へ踏み込む。恐怖も何も飛んでいた。柘榴がいなくなること、その方が恐ろしかった。
「行くな、柘榴っ! お前の居場所はそんなところじゃないだろう!」
 開け放した窓から猫が通う。朝が来れば鳥が鳴く。
 冬は寒いが、穏やかなあの日溜まり。
 お前の居場所があの部屋じゃないなんて言わせない。
「柘榴――――――っ!!」
 甘い香りと吹き荒れる花片に息が詰まりそうになりながらそれでも叫んだ。
 声が届いたのかはわからない。
 ただ、吹き荒れる嵐の中で意識を失う直前、聞き慣れた声がしたような気がした。
 目を開けると汚れた天井が見える。所々朽ちて穴が空いているらしく、遙か高みに星が瞬いていた。
 ふわりとどこからか風が吹き、微かに残った花の香りを消し去っていく。
「…………あっ、柘榴――!」
 叫ぶと同時に起き上がると、身体の節々がしびれるように痛んだ。痛みを堪えながら屋敷を見回すが、そこには女の姿も柘榴の姿もない。あれだけ荒れ狂っていた紅い花片も一切残されていなかった。
 しんと静まりかえった屋敷の空気が、ひしひしと胸を締め付ける。
「……っ、……!」
 ぐっと奥歯を噛み締めた。もう一度名前を呼んだら嗚咽が漏れてしまいそうだった。
「あの……ばかっ……!」
 冷たい床に拳を打ち付けた。恐怖にすくんで柘榴を引き止められなかったことが悔しい。もっとしがみついてでも止めればよかった。
 自分が許せなくて、もう一度、先刻より固く握った拳を振り上げる。
「誰が馬鹿だって?」
 ばさり。
 と、上から布が降ってくる。
 少しかび臭い。
「……………………柘榴!?」
 布を跳ね飛ばして振り向けば、変わらない柘榴が俺を見下ろしていた。意地の悪い笑みまで浮かべている。
「良昭」
「な、なんで行かなかったんだ、母親なんだろ!」
 目に浮かんだ涙を慌てて拭う。
「良昭」
 柘榴が俺の前にしゃがみ込む。先刻とはうって変わって真剣な面持ちだった。俺は思わず息を飲む。
「そんなに俺が好きか」
「――――――――――はっ?」
「そうかそうか、良昭はそんなに俺のことが好きか」
 わしわしとその手で頭を撫でられる。というか掻き乱される。あまりの勢いに頭全体が振り回されて目が回る。柘榴は笑顔だった。物凄く楽しそうに、悪戯が成功した子供のように笑っていた。
「柘榴……お前っ!」
「ありがとうな」
 低い声でぽつりと、その言葉は落ちてきた。
 俺がまばたきをしている間に、柘榴は俺が跳ね飛ばした布を拾い上げて畳んでいる。見れば古い着物のようだった。
「お前がいつまで経っても目を覚まさないからな。風邪をひくとまずいと思って何か掛けられるものを探してたんだ。どれも状態が酷くて一苦労だったぞ」
「……それは、どうも」
 そのおかげで俺は思いっきり勘違いをした訳か。
「あの人は、な」
 寂しげな声に思わず振り返った。
「もう死んでるんだ」
「……え?」
 柘榴が天井を見上げる。隙間から星空が見える朽ちた天井。花弁は、もうどこにも舞っていない。
「庭の柘榴、ずいぶん前に折れただろう。あれで気がついた。……もう死んでるから、生きた人間の肉を食らってこの世に身体を留めた。だからあんな怪事件が起きた」
「気付いてたのか?」
「いや、あの花の香に気付いて、もしかしたらと思っただけだ。まさか当たるとはな」
 そうでなければいいと、思っていたのだろう。
 懐疑を否定したくてここを訪れて、そして真実に出会ってしまった。
「柘榴の予感はよく当たる」
「……そう、だったな」
 声が少し震えた。もしかしたら泣いているのかもしれない。
 初めて見る柘榴の涙。俺は見なかったことにした。
「なあ、柘榴」
「……なんだ?」
 きっと俺は今、情けない顔をしている。
「もしも、あの人が生きていたら……どうしたんだ」
 柘榴が振り返る。
 人形のような顔が俺を見る。もしもあの女が生きていて、そして柘榴を迎えに来たんだとしたら。
「……それでもお前は引き止めるんだろう?」
「柘榴が行きたいんなら考える」
 どんな状況でも、柘榴がどう思っていても、俺は柘榴を引き止めたい。失いたくはない。けれどもしも、離れることが柘榴の幸せだというなら、少しは引き止めるのを遠慮してやってもいい。
「そうか」
「……柘榴」
 ポン、と柘榴の手が俺の肩に置かれた。
「帰ろう。みんなが心配してる」
 見上げた柘榴は微笑んでいた。


  俺は何も知らなかった。
  柘榴の生い立ちも、過去も、孤独も。
  俺はそばにいたかった。
  誰よりも、柘榴がそうしてくれたように。
  だからどうか願う。

  柘榴がいつまでも微笑んでいられるように。


 痛む四肢を抱えてふらふらになりながら家に帰ると、母親長兄次兄父親の順にしこたま怒られた。最後は手まで出てきた。
 やがて町を騒がせた怪事件は、時の流れとともに忘れられていく。
 今日も柘榴の膝の上で、通い猫が暢気な寝息を立てた。


了。

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