#0.5 -- 楽園の涯
Nearest the End of the Eden
そこは荒野だった。
乾いた風が砂を巻き上げ、ひび割れた大地に奇妙な文様を描いては消していく。大地は黒く、空には灰色の暗雲が立ちこめていた。
絶え間なく雲が風に流され蠢いているのに、時が止まったかのような光景だった。
生けるものは何もない。ただ風だけが孤独を嘆くように吹きすさび続けている。
こここそが世界の終わりだと、この景色を見た者なら誰しもが言うだろう。
だが荒野を歩く人間は幼い少年一人しかおらず、そのうつろな目にはたして世界は正しく見えているのか。
あちこちがほつれ砂と乾いた血にまみれた、かろうじて服の形をとどめている布を身にまとい、ただ自分の足下だけを見てこどもは歩き続けていた。
ふらり、ふらりとよろけるように足が前へ進む。
歩いているのか、倒れることが出来ずに進んでいるだけなのか。向かう先を確かめもせず、点々と荒野にその軌跡を残していく。
大きく左右に歪みながら彼の元まで続いている足跡の連なり。それだけがこのこどもがこの世にいる証だった。地平線の果てから、この荒野の真ん中まで。
無常な風が少しずつそのわずかな痕跡すらもこの世から消していく。
振り返ったところで、もはやこどもに戻る道はないだろう。それがわかっているのか、あるいはもとより放逐された身なのか、こどもが振り返ることはなかった。
ざあざあと砂を巻き上げた風が吹き、こどもの弱り切った身体を打ち付けていく。こどもの細い腕が顔をかばい、よろけた足が必死に荒野を踏みしめた。
どんな荒れた風が吹いても、砂嵐に痛めつけられても、こどもは決して倒れなかった。
やがて風が向きを変え、辺りが一瞬静寂を取り戻す。
恐る恐る腕を下ろした少年の目に、奇妙な物が映った。
地平線上の一点。
けぶる砂の向こうに、こんもりとした緑の塊があった。
巨大な岩を緑で染めたような、その異様な物にこどもはしばし目を奪われていた。
そしてようやく踏み出した一歩は、先刻までとは違う確かな目的を持って前に進んでいた。
一歩。
また一歩。
どれほど歩けばそれに近づけるのか、こどもにはわからない。何もない荒野で感覚はとうに麻痺していた。
歩いていればいつかはたどり着ける。
こどもはそう信じて足を動かし続ける。
また一歩、さらに一歩。
まっすぐ伸びる軌跡が風によって吹き消され雲が表情を変え、新しい軌跡が作られてまた消え、そうして数え切れないくらい繰り返しの果てに、ようやっとその緑の塊が確かな輪郭をこどもの前に見せ始めた。
それは、森だった。
水もない、雨が降る気配すらない、永遠のような荒野にぽつりと現れた森。
生い茂る葉の緑は不自然なほどに濃く、その周囲の地面も澱んだように黒かったが、そこに緑があることは間違いなかった。
少年の歩く速度が目に見えて速くなる。
一歩にすらもたついていた足が、次々と前へ出るようになった。身体が前のめりになり、強く地面を蹴るようになった。森が近くなるごとに地面が柔らかく湿り気を帯びてくるのがわかる。
身を寄せ合うように枝を伸ばす木々の、葉の一つ一つが見えるほどになり、こどもは飛び込むようにしてその森へと駆け込んだ。
塊の外周を囲っているのはこどもの胸ほどの高さしかない低木。その隙間から中へと身体を割り込ませる、柔らかな雑草を踏んでさらに奥へ。
塊の内側にあったのは、背の割に細く今にも折れそうな木々だった。こどもが体重をかけるだけで細い幹は悲壮な音を立ててきしむ。
不安げに広がる枝葉を見上げながら、こどもはさらに奥へ。
かすかな水の音が、こどもの耳に届く。
そこには泉があった。
大人が二人もいれば両腕で囲ってしまえそうなほどの、ささやかな泉。
水は深く澄み、青緑の水底にゆらゆらと波紋が影を落とす。荒れ狂う荒野の風から、弱々しい木々がこの泉を護っている。こどもの目にはそう見えた。
そして、泉の縁には。
ぽたりと、こどもの目から雫が落ちる。
とうに枯れ果てたはずの嗚咽が、喉の奥から這い上がってくる。
小さく肩を揺らしながら、重荷を引き摺るように泉の縁へと近づいた。
そこにいたのは、泉を見守るように両手を広げ佇む女神像と、その足下に寄り添うように横たわる朽ちた人の骨。
少年が慟哭する。
どんな風にも痛みにも屈しなかった膝が、力なく地面へと落ちた。
わずかに残った服の残骸を掴み、声にならない声で必死に何かを訴える。ばたばたと涙が骨の上へ落ち、じわりと滲んで消えていった。
すがるようにこどもは泣き続けている。
その慟哭は暗い木々に遮られ、荒野の風にかき消され、もうどこにも届くことはない。かつては暖かい手を持っていただろうその骨も、柔らかな微笑みをたたえていただろう女神像も、誰もこどもの傍にいてやることはできない。
時が止まったようなこの世界の果てで、こどもは一人だった。
だが、やがて涙も涸れ果てたころ、こどもは見つけるだろう。
女神像に刻みつけられた、唯一彼に残された言葉を。
白い台座にはいびつな文字でこう綴られていた。
《私は辿り着いた――こここそが、私の旅の涯て》
そう、これは終わりと始まりの物語。