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雪の花 another side


 雪の降る日に、その人は身を投げたらしい。
 都内の片隅、灰色に汚れた雪の中、縮こまるようにその葬儀は行われた。
 どこから嗅ぎつけたのか、無作法なマスコミが幾人か騒いでいたのを思い出す。
 ミュージシャン謎の自殺だとか、そんな煽り文句が頭に浮かんで俺もたいがい無粋だと思った。
 あの日唐突に、俺の熱は消える。
 そのバンドと出会ったのは、反発することしかできなかった頃。
 何がしたいのか、何が出来るのか、そんなことを考えるのが面倒で、ただ眼に痛い照明と濁った空気とそれを吹き飛ばす振動に融け込んでしまいたかった。
 刹那的で幼かった。


 言いづらそうなバンド名だなと思った。
 洒落た感じの、辞書と首っ引きにならなければたぶん意味がわからないだろう横文字で、もしかしたら馴染んだ言語ではないのかも知れない。造語とか。
 案の定、少し言いづらそうにボーカルが舌を回す。
 厚い化粧に、紫の爪、うざったそうな衣装をまとって、まるで童話の魔女のようだ。
 本当のところ興味はなかった。
 友人の友人が出ているとかで無理矢理買わされたチケットは、捨ててしまうつもりでいた。なのに自分がここにいる奇妙な現実を、うまくかみ砕けないまま掻き鳴らされる音を聞いていた。
 反抗期なんて簡単で陳腐な言葉で片付けて欲しくはなかったけど。
 虚しいことに親と喧嘩した勢いで家を飛び出してここに来た事実は変えられない。
 親の疲れたようなため息が耳に残っている。
 怒りとは少し違う衝動が胸の中で渦巻いている。色が染まっていくように、その毒が全身に広がっていく。
 吐き気がした。
 照明が落ちて、影の中に取り残される。

 ドン、と。

 俺の胸の内を見抜いたみたいに、その衝撃は届いた。
 渦をかき消す、真っ直ぐで強い力。
 ドラムの。
 掻き鳴らされるギターも、その上をうまく乗るボーカルも、何も響かなかった。
 ただ、強く強く打ち鳴らされるその一音が、心臓を貫くように、胸の渦をかき消すように。
 響いて。
 一曲終わる頃には、俺の中には何も残されていなかった。
 すべて音にかき消された。
 苛立ちも、不安も、葛藤も。

 それから俺は追いかけまくった。
 父親とは相変わらず言い争いばかりだったし、時には手も出たし、母親も泣いて、姉貴はため息をついて顔を背けて、それでも何も変わらなかった。
 持って行かれた俺の中身は、あの小さな空間でしか満たされなかった。
 空っぽの胸の中に、苛々ばかりが積もる。
 コンクリートに降るこの雪のように、ぐちゃぐちゃと汚らしく溶けて積もっていく。
 舌打ちが出た。
 口を動かすと、切れた唇が痛んだ。
 最近、父親の手が早い。それだけ苛々させているのはわかっていても、どうすることも出来なかった。それだけは譲れなかった。
 何が譲れないのかもわからなかったけど。
 俺のすぐ隣を男が走り抜けていった。
 白い息が弾んで、妙に楽しそうだ。雪が降っているというのに、こんな何もない公園で何が楽しいんだか。衝動的に家を飛び出して行く場所がない俺くらいだと思っていた。こんなところに来るのは。
「おい馬鹿、あんまはしゃぐなよ」
 後ろから声がした。
 振り返るとまた男。
 わりと顔がいい。結構背も高い。結構いい声で、歌うと栄えそうだった。
 というかそっくりだった。
「馬鹿って何だ、だって雪だぞ、雪!」
 前を走っていた男が振り向いて、大声で喚く。
「走って転んで腕なんか折ってみろ、見捨てるぞ」
「階段から落ちるお前とは違いますー」
「かわいくねえ」
 口をとがらせた男に、笑いながら言い返す。
 いいから戻るぞとかそんなことを言いながら、男が腕をつかむと、はしゃいでた方がその腕を振り切って逃げた。
「あ、てめ、言ってるそばから……!」
 慌てる男を尻目に、そいつははしゃぐはしゃぐ。
 狭い公園の中を走り回っている。
「くそ、なんでユイチがついてこねえんだよ……俺じゃあの馬鹿止めらんねえっての」
 男が苛立たしげに呟く。
 聞き慣れた名前が出たような気がして、振り向こうとしたとき、はしゃいでた男がおまえもこいよーとか言いながらくるりとこっちを向こうとして。
 転んだ。
 ……近くに水飲み場があるから、地面、凍ってたんだな。
「だー! 腕! 腕、大丈夫か!」
 大声で叫んで男が駆け寄る。
「いててて……平気、たぶん」
「たぶんじゃねえよ!」
「あー……痛い。腰打った」
 見事な尻餅だった。
「なんだ、それなら平気か」
「平気じゃねえよ、大事だろ、腰」
 手を借りて立ち上がる。
「……大丈夫なのか?」
 男の声が真剣になった。
「やー、平気平気。そんなマジになんなって」
「だからライブの前ぐらいはおとなしくしてろっつったんだよ」
「悪かったって」
 へらへらと笑っている。
 その顔つきは、いつもステージの上でライトを浴びているときとは大違いだけど。
「あの、大丈夫ですか」
 思わず声をかけていた。
「ああ、すみません、大丈夫です……って、あなたの方が大丈夫なんですか?」
 振り返った二人がぎょっとする。
「リョウさんと、ユキさんですよね?」
 なんでそんな反応を返されているのかわからないまま、俺は畳みかけるように問いかけた。
 心臓が止まりそうで、気にしている余裕なんてなかった。
「そうだけど……」
 ボーカルのユキが答えた。
「あの……俺、ずっとファンで」
「ああ、うん、それはいいから、わかったから、とりあえずちょっと君、うち来な?」
 リョウが、あの音を俺にくれた彼が、そう言って俺の肩に腕を回すから俺の心臓は壊れるんじゃないかと思った。

 親父に殴られた頬が、そんなにひどく腫れてるとは、全然思いもしなかったから。


 あの時はびびったよーとリョウはいつまでも笑い話にした。
 出会って早々、腫れた頬の手当をされて、いつの間にか家に出入れするようになって、そうこうする間に彼らの人気がどんどん膨れあがって。
 ただ俺は少し寂しかった。
「でもホントに嬉しかったんだ」
 彼は振り返ってそう言ってくれるけど。
 今では彼らのファンだなんて珍しくない。街で声をかけられることも増えたんだそうだ。
「俺らのファンクラブが出来たら、第一号は続木だな!」
 そんな風に笑うから。
 俺は思い上がっていた。特別だと思いこんで。
「……今のファンなんて、ホントのファンじゃないじゃないですか」
「え、なんで?」
「だって、昔の曲とか知らないし、最近のノリのいい曲ばかりで」
 その日は、またいつものように親父と喧嘩をして母親を泣かせたあとで……というのは言い訳だろうか。
 口から吐き出される言葉が止まらなかった。
 体内の空洞にたまった膿が、とうとう溢れてしまった。
「そうかなー、俺、今メインでやってる曲も好きだし、やっぱ乗ってくれると嬉しいしな」
「でも、俺は」
 顔が見れなかった。
「……続木、今の曲嫌いなのか?」
 静かな声だった。
 いつもは賑やかすぎてメンバーから苦笑されるくらいの人なのに。
「嫌いっていうか……ただ俺は、変わっちゃうのがいやで」
「変わる?」
「変わってるじゃないですか。前はメジャーデビューとかそんな話全然してなかったのに、どうしたら売れるかとか、そんなことばっか話してて」
 もっとたくさんの人に聞いてもらいたいと、そう話し合った結果だということは知っていた。
 知っていたけれど。
「俺、いやです。変わって欲しくない。なんで変わらなきゃいけないんですか。今のままで充分じゃないですか……!」
 じんわりと目頭が熱くなって、言葉を飲み込んだ。
 不意に訪れた沈黙が痛い。
 あーとかうーとか、小さな声で彼が唸っていたけれど、俺はとうてい顔を上げられなかった。
 いつまでもこのままでなんて出来ない。
 そんなことはわかってる。
 子供は大人になるし、大人は老人になる。永遠じゃない。
 それでもどうして今なんだ。まだ時間は残されているじゃないか。俺はまだ大人にならないし、彼らだって老人になるのは何十年も先の話だ。
「変わろうとして、変わったんじゃないよ」
 いつもと同じ調子で、そんな言葉が聞こえた。
「そりゃ、これからはこんな感じで行こうって話はしたけどさ、そういうのって自然と出てくるんだ。自然と変わり始めていたのを、あらためて言葉にしただけでさ」
「けど……」
 ふっと笑う気配がした。
「続木が今の曲をあんま気に入ってくれないのは悲しいけど、俺たちは俺たちの好きなようにしかやれないから」
 ひんやりと、手足が一気に冷えるのを感じた。
 ゆっくりと血の気が引いて、世界が回転したような錯覚に襲われた。
「だから……ごめん」
 かすれた声で。
「どうして」
 どうしてあなたが謝るんですか。
 否定したのも傷つけたのは俺で、傷つけられたのはあなたで。
「亮」
 いつから近くにいたのだろう。ユキが声をかけてくる。
「え、もう時間?」
「ああ」
 これからミーティングだという。
 それまでの時間、彼の散歩に付き合わせてもらっていた。彼と出会った公園まで。
「そういえば、なんでいつもユキが呼びに来るんだ?」
「ユイチのご氏名なんだよ」
「なんで」
 いつも通りの二人の会話。
 歩き出してしまった二人に、俺は黙ってついて行くしかない。
「俺とお前があんまり仲良くないからっつう配慮らしい」
「えー何それ、俺たちこんなに仲良しなのに!」
「……いや、違うだろ」
 リョウのマンションに着いたところで、ユキが立ち止まった。
「行かないのか?」
「お前先に行ってて」
 リョウが首をかしげる。
「タバコ。あいつらの前で吸うと怒られる」
「俺だって怒りたいんですけど」
「見逃してくれよ、親友」
 一本だけだぞと言い残してリョウがマンションの中に入っていった。
「あ、続木、またライブでな」
 変わらず笑ってくれる彼に、俺はぎこちない笑みしか返せない。
 彼の姿が消えても、すぐには足が動かせなかった。
 カチッと音がしてライターに火がつく。
 オレンジの光が、ユキの顔を浮かび上がらせて、消える。
「お前さ、俺たちに何して欲しかったの」
「……え」
 怒っているのか呆れているのか、うまく読み取れない表情でユキは煙を吐いた。
「お前が懐いてくれるの、俺も嫌いじゃなかったし、リョウとかマジで弟みたいに思ってるみたいだけどさ」
 化粧を落とした顔は意外と印象が薄く、当たり障りのない顔をしているなと思った。
 思えばあまりマジマジとこの人の顔を見たことはなかった。
 なんとなく、苦手だった。
「俺たちはお前のオモチャにはなれねえよ」
「そんな……!」
 くしゃりと、頭の上に手が置かれた。
「都合のいいことばっか見てんなよ」
 言葉に反して、どこか優しい笑顔だった。
「お前だって変わってるんだぜ」
 そう言い残すと、彼はタバコを消してマンションの中へと消えていった。
 最上階にともる明かりを見上げて、俺はそこに背を向けた。


 あれからすぐに彼らのメジャーデビューが決まり、その忙しさと立場に遠慮して、彼らの生活からは自然と足が遠のいた。
 それでも、送られてきたファンクラブの会員証は、これからも一番の宝物であり続けるだろう。
 あんなに嫌っていたスーツを着て、満員電車に乗って、へとへとになって帰宅して、寝て起きての繰り返し。
 思っていたよりも早く、そして簡単に大人になってしまっていた。
 親父とは相変わらず言い争いをするけど、酒を酌み交わす機会も増えた。母親のあの頃は本当に大変だったのよという愚痴に、笑顔を返せるようになったし、結婚する姉貴を祝福することも出来た。
「あ、雪」
 すれ違った誰かの呟きが聞こえた。
 駅前の雑踏の中、足をゆるめて空を仰いだ。
 灰色の空から降る灰色の雪。
 あの人は本当に雪が好きだった。
 雪が降るとはしゃいで、何度注意するよう言われてもはしゃぎ回って、そして転んだ。
 何度か付き合わされて一緒になって雪まみれにもなった。
 冷たい空気が目にしみて、思わず俯く。
 その視界の隅を、紫色の何かがかすめたような気がした。
「……あの!」
 反射的に手を伸ばして掴む。
 紫でも何でもない、短くて健康的な指先。一般的なサラリーマンよりは適当に伸びた茶色い髪。
 整ってはいるけど不思議と印象の薄い顔立ち。
「えっと、俺に何か?」
 聞き慣れた懐かしい声だった。
「ユキさんですよね?」
「え、なんで俺の……あれ、続木?」
 最後に見たのは彼の葬儀の時だった。
 声をかけるのが躊躇われて、遠くからその姿を見ただけだった。
「うわー、お前、全然気づかなかった。もうすっかり大人だな」
「ユキさんはあまり変わりませんね」
「まあなあ……結局あんま堅気じゃないし」
 何やってるんですかと聞くと、名刺を渡された。習慣で渡し返す。
「意外」
 ゲーム会社なんて、想像もつかなかった。
「そうか? 前から興味はあったんだよな。ほら、あれのサイトも作ってたの俺だし」
「……ああ、そういえば」
 はらりと二人の間に白い雪が降りてきた。
「墓参り、来てくれてるんだって?」
「あ……はい」
「親父さんから聞いたよ」
 そういえば何度か会った。
 メンバーは墓参りではなく、いつも部屋の方に集まっているんだと言っていた。あの部屋をいつまでもそのままにしてるのは、あまりいいことではないのだろうけどねと、寂しそうに笑っていた。
 人一人の不在を、彼らは埋めることが出来ないでいるのだ、今も。
 俺はどうなんだろうか。
「そろそろ忘れたっていいんだぜ」
 ユキは笑っていた。
「お前が大人になったように、俺たちやリョウのことを忘れたって誰も攻めやしない」
「……自然に変わったことだから?」
 いつかの会話を思い出す。
 トゲだらけの言葉で、たくさんの人を自分を傷つけていた頃。
「俺は、忘れません」
 彼の歌声を思い出す。
 あの人の笑顔を思い出す。
 俺を貫いた、あの音を思い出す。
「俺は忘れないです、ずっと」
 この胸を焦がしたあの日の熱をなくしてしまっても。
 覚えているから。
 変わらずに、覚えているから。
「……そっか」
 そう言って笑った彼の吐息が、花のように咲いて散った。



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2008.12.27. 原稿用紙16枚