雪の花
爪が折れた。
せっかく伸ばしていた右手の人差し指。
俺がまだヴィジュアル系として歌っていたころ、伸ばした方がいいと言われて以来、伸ばし続けてた爪。
手入れもして、簡単に折れたりしないように米は買えなくても牛乳だけはしっかり取って。(おかげで階段から転げ落ちても無事だった)
高校のころからはじめた俺のバンドは、多少メンバー変遷はあったものの、気がついたらレコード会社と契約して、気がついたらマイナーなりに売れるようになっていて。
それが三年前の話。
俺はもうすぐ、二十五歳になる。
埃の積もった部屋は、否応なく一年という時間を感じさせる。
しんと静まりかえったワンルーム。一人暮らし用にしては広くて壁が厚くて家賃が高い。もっとも、かつてここに住んでいたヤツは、ここの大家の一人息子で家賃なんて払っていなかったけれど。
去年も一昨年も同じ光景を見たはずなのに、年々埃が厚くなっているように見えるのは気のせいではないだろう。
たぶん、確固たる不在というのはそういうものなのだ。
重々しい音を立てて、開くはずのないドアが開く。そこからやって来たのは、全身黒い服で包んだ長身で猫背の男だった。
「……せめて黒い服を着て来いよ」
男は俺を見るなりそう言った。
首周りにボアの付いたジャケットと、ストライプのシャツにダメージジーンズ。腰にはウォレットチェーンがついてて、携帯につけた可愛らしいファーのストラップがそこに並ぶ。
「黒い服なんて着たくないね」
「お前な」
呆れたような声を出しながらも、表情は笑っている。手に持っていたコンビニの袋を足下に置いて、部屋を見回した。
「今年は二人か」
「ああ」
「何か聞いてるか?」
「いや。でも洋平は来たくても来れないだろ。今ツアー中」
「洋平まだ弾いてたのか」
「あいつだけだもんなあ、残ったの」
「ユイチは……大阪だから来れないだろうな」
「大阪? また転勤したのか。俺、静岡までしか知らねえや」
「一昨日ぐらいに届いてたな。見てないのか」
「あー……帰ってないから」
「忙しいのか?」
「まあなあ、今日は無理して抜けてきたし。帰る先は家じゃなくて会社だよ」
「大変だなんだな、ゲーム会社も」
「どこも大変なのは同じだろ」
二人で冷えた部屋に立ちつくしながら、ぼそぼそと話し続けた。部屋の空気は冷え切っていて、喋るたびに白い息が花のように咲いた。
「……いつまでこうして来られるんだろうな」
俺が呟くと、男は何かを言おうとして黙ってしまった。
その答えを待たずに、呼びかける。
「哲平」
「……なんだ?」
「掃除、すっか」
そうだな、と笑った顔はどこか懐かしくて、疲れた顔をしていた。
三年前の俺たちは、たぶんこんな顔をしていた。
メンバーのうちの一人、亮が死んだのは三年前の雪の日。
自殺だった。
そのころにはファンクラブもできていて、葬式ではたくさんの人が泣いていた。ミュージシャン謎の自殺、が好奇心を煽ったらしく、マスコミも少し来た。
ヤツは、作曲をしていていたわけでも作詞をしていたわけでもない。不可欠なほど巧かったわけでもない。それでもどうしても、俺たちはヤツが穿った穴を埋めることができなかった。
今でこそ洋平は仕事にしているし、哲平なんかは趣味で弾いたりもするらしいが、あの日からあいつらは弾けなくなり、そして俺は歌えなくなった。
一年がたった日、俺たちは自然とこの部屋に集まっていた。
亮が死ぬ前までは、いつも誰かがこの部屋にいて、亮の部屋なんだか俺たちの部屋なんだかわからないと、差し入れを持って来たおじさんが笑うくらいそれが当たり前だった。
埃の積もった部屋をみんなで掃除して、五つの紙コップに酒を注いで飲んだ。
二年目には中流企業に就職したユイチが仙台に飛んでいて来れなかった。電話越しの聞こえたユイチの声には、安堵のようなものが滲んでいた。重々しい空気の中、俺たちは部屋を掃除してすぐに別れた。
「あの二人のこと、どう思う」
哲平が聞いた。
降り積もった埃に負けて、掃除の手はとうに止まっていた。
「どうって」
「情が薄いとか、友達と思ってなかったんだろうかとか」
「お前はそう思ってるのか?」
「いや」
哲平はベランダの向こうを見ている。地上より九階分、星に近い場所から夜空を見ている。
「……あいつらの気持ち、わからなくはないよ」
年々、亮の墓に捧げられる花は減っていく。自然なことだ。忘れなければ生きていけない。
忘れなければ、現実を生きてはいけない。
亮が死んでも食っていくために働かなければならず、亮が死んでも女を抱くし、振られて泣いたりもする。
「この部屋は重すぎる。絡め取られて、帰れなくなりそうだ」
埃ばかりが積もる部屋。
きっとこの埃は鉛と沈鬱と破滅的なものでできているんだ。少女が砂糖とスパイスと素敵な何もかもで出来ているように。
「ここに来ると」
哲平が言った。脈絡もなかった。
「どうして亮が死んだのか考えそうになる」
睨むようにベランダを見ていた。
掃除をするために開け放してあったベランダ。灰色のコンクリートで作られた手すり。あれを乗り越えて亮は死んだのだ。去年も一昨年も、誰一人ベランダには出なかった。
そこには亮が絶望した何かが残されているような気がして。
「俺だってそうだ。……いや、ここに来るだけじゃない」
たとえば、かつて着ていたような黒い服を着たとき。
たとえば、目の前にマイクを向けられたとき。
たとえば、ふと歌を口ずさみそうになったとき。
「冬が来ればいやでも考えるし、雪が降ったらなおさらだ」
「意外だな」
「何が?」
「亮と一番仲の良かったユイチが一番遠いところにいて、一番接点のなかったお前がここにいる」
「だからだろ」
「そうか」
ふわりと、とっくに色褪せてしまったカーテンが揺れる。月明かりに埃が舞って、息苦しいほどに神秘的な光景が広がった。本当に息苦しかったが。
咳をすると哲平が顔色を変える。
「おい、喉……は、もう気にしなくて良いのか」
「濁声のプログラマーでも誰も困らねえよ」
けほん、ともう一度咳。
喉を手で押さえると、哲平が何かに気付いた。
「切ったのか?」
「何を」
「爪。伸ばしてただろう、ずっと」
「……ああ、」
折れた、と言おうとして口が止まった。
――ツメ伸ばさないの?
似合いそうなのに、と笑う亮の顔を思い出す。
もういい頃合いなのかもしれない。
「まあ、な」
そうだ、いい頃合いなのだろう。三年だ。
俺は冷たい風の吹くベランダに近づいた。哲平が怪訝な顔をする。
靴下のままコンクリートに足をつけると、後ろから「おい」と非難するようなすがりつくような哲平の声がした。
「……さすがに寒いな」
外に出たと思うだけでより寒く感じる。
足の裏から伝わるコンクリートの絶対的な冷たさが、じわじわと全身をめぐる。
確か亮は裸足だった。
今の俺以上の冷たさを、剥き出しのコンクリートの絶望を、あいつは感じて逝ったのか。
「おい、戻れよ」
部屋の中から哲平の声。
「……雪が」
「え?」
「雪が降ればいいのにな」
振り返ると、哲平の方こそ今に飛び降りそうな顔をしていた。
「亮は、笑ってたと思うか?」
「……わからない」
「雪はきれいだと思うか?」
「わからない」
あれ以来、俺は雪をきれいだと思えない。
洋平もユイチも哲平も、雪が降ると顔を歪める。
「なあ、……戻れよ、頼むから」
哲平が必死な顔で訴えてくる。珍しいなと素直に感心した。
なあ、ともう一度言われて、俺はフローリングの床を踏みしめる。
哲平が腕を掴んできた。強い力だ。俺を繋ぎ止めようとする。
「俺さ」
現実が死んでしまった部屋で、いったいどこにすがりつけばいいのか。生きているものは俺と哲平しかいない。
「本当は聞いたんだ」
空虚な部屋を見つめて俺が言う。
白い息が、咲いて、散る。
「最後の電話」
「……お前、電波が悪くて聞こえなかったって」
「ここ、ベランダなら電波入るんだよな」
苦笑。
笑っているのは俺だけだ。俺一人だ。
「どうして……」
「なんで俺にかけてきたんだろうな」
三年前にも繰り返した疑問。
「答えろよ……! あいつはなんて言ってたんだ!」
悲鳴だ。
哲平の声が冷たい部屋を震わす。
俺はベランダの向こうに広がる夜空を見つめた。
「……見ろよ、雪だ」
「おい!」
「雪が、きれいだ」
怒気を孕んだ視線が、やがて違和感に気付く。
中空に浮かぶ明々と輝く月。星の存在すら翳る、月だけが浮かぶ夜。
「そう言ったんだ、亮は。それだけだった」
俺は笑った。無理矢理に頬をつり上げて。
笑っているのは俺一人だった。
「なあ、哲平。雪はきれいだと思うか?」
「…………わからない」
眩しそうに月を見上げてそう言った。
「俺はきれいだとは思えないんだ」
「ああ」
「でも、亮はきれいだって言ったんだ」
「……ああ」
最後の言葉を聞いたのが俺だった理由も、それが最後になった理由も、この部屋に深く深く刻まれて永遠に答えを見せてはくれないだろう。
やがては埃に埋もれて、はるか未来で化石にはなるかもしれない。
俺は大きく息を吐いた。
「見ろよ、雪の花みたいだ」
その翌日、関東で今年初めての雪が降り、ユイチから電話がかかり、奴は洋平のツアーを見に行ったんだと告げた。
最近売れ出したアイドルのツアーで、特に何の滞りもなく終わったらしい。
「洋平に誘われて楽屋行ったわけ」
すごいじゃんと俺は茶化す。
徹夜明けでテンションが高いんだ。めったに吸わない煙草を口にくわえているくらいに。
「……紙コップがさ」
ユイチの声は震えていた。
「一個多かったんだよ。酒注がれてんのに、誰も手に取らなくて」
「……そうか」
「部屋、行ったのか?」
「ああ」
「哲平来てた?」
「ああ、全身真っ黒だったよ」
「ははは、喪服代わりか」
ユイチは笑ったが、たぶん顔は笑っていないだろう。
そっち雪降ってるんだろう?とユイチが言った。
「降ってるよ。灰色だ」
「お前、雪好きじゃないんだっけ」
「ああ」
「昔、亮が言ってたよ」
「え?」
この三年間、あの部屋以外の場所でユイチが亮の話をするのは初めてだった。
「絶対に最高にきれいな雪景色を見つけて、お前に見せてやるんだって」
喉に、白い息が絡む。
「…………そうか」
絞り出すように言った俺の声が、どうか昔と変わらない響きで伝わることを願った。
そして来年こそ、あのベランダに雪が降ることを。
頬を伝った雫が結晶にはならず床に落ちて弾けた。