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  魔法をかけて
  ずっと待っているから


幻灯一雨 After the rain



 ハロウィンまでに戻る。
 菓子でも用意して待っていてくれ。

 要約するまでもなく、それしか書いていないポストカードが入っていた。
 淡い色彩で描かれたロンドンの時計塔。
 絵本みたいな絵に苦笑が浮かぶ。柄じゃないだろう、俺もお前も。
 誰にも告げずに早見が日本を出たのは三年前のことだった。
 家族にすら知らされておらず音信不通で捜索願の一歩手前まで言ったとかいう噂もあったが、最近の様子から見ると連絡は普通に取れてるらしかった。実際のところどういった事態で、そしてどんなやりとりをどれくらいして現状に至ったのか俺は知らない。
 たぶんそれは、家族だけが知っていればいいことだろう。
 俺はただの昔なじみだ。
 親友よりは悪友。
 負担にならない程度につかず離れず。
 親の遺産を食い潰しつつ古い本に囲まれて過ごす俺と、フットワークも軽くあちこちを駆けずり回る早見と。
 早見が俺を訪ねるのをやめれば、途切れてしまう、そういう関係。
 日本を出たらしい、という噂を聞いて真偽を確かめた時には、もう半年が経っていた。知らなかったんですか?と早見の妹に驚かれて、非常にばつの悪い思いをした。
 あれから二年。
 早見がいない、変わらない日常。
 たいした変化は感じなかった。あいつが家に来ない。ただそれだけ。
 それでも何か変わっていたのだろうか。
 俺が変わらなくても、早見は変わったかもしれない。
「……そうか、帰ってくるんだな」
 冷たくなった風に飛ばされないよう、カードを持つ手に力を込める。
 かすかな呟きに応えるように、枯れ葉がかさかさと風に舞った。


 俺の仕事場はいつも狭い。
 もともと狭い店内に可能な限り本棚と本を並べたら酷いことになった。その一番奥の申し訳程度に作ったカウンターで、俺はいつも本を読んで過ごす。ごくまれに書き物をしているときもあるが、その日は特にすることもなく少し前に流行った(売り物の)ミステリを読んでいた。
 客はあまり来ないが、もとより道楽。儲けは期待していない。
 それでも最近は何人か見知った顔がこまめに顔を出すようになったり、本の動きもそれなりにせわしなくなったり……まあ、おおむね順調と言えた。
 早見からのポストカードを受け取って数日。
 あれ以降の連絡は特にない。具体的な日付を教えられてもいないし、本当に帰ってくるつもりなのか、冗談なのかも知らない。由亜ちゃん……早見の妹に連絡を取れば詳しくわかるだろうが、待ちわびているように見える気がして気恥ずかしかった。
 文庫の上を踊る硬い文章から顔を上げると、時計塔がひっそりと佇んでいるのが見える。
 すぐ脇のコルクボードに貼り付けておいたポストカード。
 乱雑な本屋には似合わない、柔らかな色合いがチクチクと目に刺さる。
 根を詰めて読み過ぎたか、眼球の奥がしくりと痛んだ。
 こういった痛みとはもう十年近い付き合いになるが、いまだに慣れることはない。小さく溜息をついて、読みかけの本を閉じる。
「……あ」
 栞。
 本を置こうとしたカウンターに、むなしく残された栞を見つけて、思わず舌打ちが出る。面倒くさい。
 挟み直す気にもなれないし、再び読み進めるときにページを探すのも面倒だ。
「あー……もう」
 いつもより乱暴に本を投げ出して、身体を伸ばす。
 思っていた以上に肩や背中が鈍い音を立てて軋んだ。
 相変わらず眼球は痛む。
 もう一度、今度は深く溜息をついて、俺は立ち上がる。
 とりあえず一息つこう。
「……どうも、良くないな」
 本と名の付くものなら大抵は読むのが俺だが、相性の合わない本だってそれなりに存在する。沈鬱な色合いの表紙を睨んでも、今すぐ本を開こうという気は起こらなかった。
 視界の隅で、ひっそりと時計塔が息づく。
 絵本のような色合いに、思いの外影響を受けていたのかもしれない。
 そっと触れれば懐かしい感触が伝わる。
 画用紙。
 不意に笑みがこぼれた。
 海を越えて運ばれてきた手紙が、子供の頃を思い出させる。
 ざらざらの表面と、乾いたぬくもり。
「お前はホント変なところで俺を感動させるよな」
 どんな顔をしてこのカードを選んだのだろう。
 早見もまた、懐かしい感触に目を細めたりしたのだろうか。
 止めていた画鋲を外し、カードを手元に引き寄せる。
 添えられた短い言葉。
 無骨な文字。
 昨日までなんてことのなかったものが、急に好ましく思えてきた。
 冗談か本気かもわからないが。
 迎えてやろうじゃないか。
 俺はすぐにレジの鍵をかけ、店の外に外出中の札を掛ける。忙しいときや出掛けるときはいつもこうしているから、馴染みの客や近所の人間にはもう慣れっこの光景だろう。
 所詮道楽、そして書き物の方も今は切羽詰まっていない。さらにいうなら本はつまらないし、目の痛みもそろそろ限界だ。
 カウンターの後ろから奥の自宅へと入り、適当な上着を見繕う。
 外は寒いだろうか。
 寒いのにはめっきり弱いが、あまり厚着をする気分には慣れなかった。
 足取りは、軽い方がいい。


 久しぶりに来た駅前は思っていた以上ににぎわいを見せていた。
 平日の昼間だというのに、いったいどこから集まってくるんだか。今日が平日でよかった。土日や祝日だったら、たぶんこれ以上に人混みに辟易して、家に帰っていただろうから。
 何軒かの店を梯子して、少しずつ荷物が増えていく。
 最初に向かったのは、いつだったか早見が好きだと言っていた店。とっくに名前なんて忘れていて、あげく数年間の間に配置が変わっていて、めずらしく慌てた。もしかしてもうあの菓子は手に入らないんだろうかと、不安げにフロアをぐるぐる回る男は多少奇妙に見えただろう。
 心配した矢先、あっさりと特徴的な形のその菓子は見つかった。何一つ変わらず、まるで流れ去ってしまった時間など何一つないのだと言っているかのように、悠然とケースの中に並んでいた。
 懐かしい菓子と再会をして、それからフロアを回る間に見つけた美味しそうな菓子で荷物を増やし、あとは笑いにでも走るかと、バラエティショップで見た目に楽しいのが売りの菓子をいくつか買い、気がつけば両手いっぱいになった辺りで我に返った。
 ……何をやっているんだ、俺は。
 両手にあるのは、早見の好きだった菓子、俺好みのひたすらに甘いチョコ、それに子供だましのカラフルなキャンディたち。
 菓子を用意してとは書かれていたが、いったい誰が二十歳もとうに超えた男を出迎えるのにこんな山を用意すると思う。
「くそっ……浮かれすぎだ」
 苦い舌打ちをして、無意識に手が煙草を探す。財布しか持たずに出掛けたのだから当然あるはずがない。というか俺は今禁煙中だ。
 溢れる袋に、自分が喜んでいたことを思い知らされる。
 たかだか悪友の数年間の不在だ。
 家族でもない、ただの腐れ縁の相手がいないくらい何の影響もない。そう思っていたし、実際そうだったはずだ。
「あーくそ、どんな顔して会えばいいっていうんだ」
 寂しいと思ったことはない。虚勢でも何でもなく、それは事実だ。
 逆にもう少し思うところがあってもいいくらいじゃないかと、自分の人間性を疑ったりもした。結局俺は、人間関係を重んじない人種なのだとも思い知った。
 それでも、二年ぶりの再会を心待ちにすることは出来るらしい。
 いないならいないでいい。
 でも、帰って来るというのなら待ち遠しい。
 それは心地よい矛盾だった。
 仕方ないから菓子の山とともに出迎えてやろう。これだけの菓子を一人で買いあさる男が、どれほど珍妙なものかも想像させてやろう。早見が笑ったら一発だけ殴って、それで二年の不在を埋めてやる。
 結構な重さになった袋を持ち直して、俺は家路を急いだ。
 今なら、いつもよりはやさしいものが書けそうな気がした。


 その日から書き始めた短編が仕上がる頃、街中で結衣ちゃんに会った。
 ハロウィンを目前に控えた十月の下旬。
 冬を感じる風に、渋い色のストールがはためいていた。
 お久しぶりですと軽く頭を下げる彼女は、記憶の中よりずいぶん美人になっていて内心驚いた。最後に会ったのは、早見の噂について訪ねたときだから、二年半か。
「帰ってくるんだってね」
 と、一通り挨拶を交わしたあとに俺は言った。
 挨拶も何もすっ飛ばして、早見が日本を出たのは本当かと聞いたあの日とは何もかもが反対の、穏やかな会話だった。
 俺の言葉に、彼女は一瞬目を瞬かせて、それからゆっくりと微笑んだ。
「はい。兄さん、今度はちゃんと伝えたんですね」
 花が咲くような微笑みだった。
 あいつに惚れるなよと、早見に言われたことを思い出す。
「ずいぶん雑な連絡だったけどね」
 送られてきたポストカードと、そこに添えられた短い言葉のことを伝えると、彼女はとても楽しそうに笑った。
「それじゃあ、お菓子、用意したんですか?」
「ああ。それはもう、あいつがうんざりするぐらい」
 甘いものがあまり得意ではない早見の苦々しい顔を、二人で思い浮かべてひとしきり笑い合った。
 冷たい風は相変わらず気ままに吹いていたが、特に不快感は感じなかった。
「そういえば、明後日のお昼ごろ、予定ありますか?」
「明後日? ……いや、なかったと思うけど」
 まあ、店は開けているだろうが。
「よかったら、一緒に空港に行きませんか? 両親の都合がつかなくて、私一人なんです」
「俺が?」
「はい。きっと兄さん、驚くと思うから」
 楽しそうに彼女が何時の便で、と説明を続ける。
 俺は空港まで迎えに行く自分を想像してみた。
 空港なんて実は行ったことがないが、なんとなくエスカレーターから大きなスーツケースを持って降りてくる早見の姿が浮かぶ。見慣れないスーツを着ていて、少しだけくたびれて見える。
 エスカレーターが降りるのに任せながら、早見は周りを見回して、まず妹の姿を見つけてて微笑む。彼女が早見に手を振ると、たぶん恥ずかしげもなく応えるだろう。
 それから俺に気付いて、まずきょとんと目を見開く。次に一瞬怪訝そうな顔をして、振り返した手に気づきばつが悪そうに顔をしかめる。それからようやっと、悪友の顔を取り繕って早見は笑うだろう。
「……いや、俺は」
 躊躇いがちにそれだけを言うと、彼女は俺の意図を間違いなく察してくれた。
「そうですよね、お店もあるし……すみません、わがまま言っちゃって」
「ああ、いや、俺こそごめん」
 それから、いくつかの言葉を交わして、俺と彼女は別れた。
 彼女には最後まで言えなかったことがある。
 別に見送りに行かないのは、店のことがあるからでも家族である彼女に遠慮をしたわけでもなくて、ただ、そうただ、俺は菓子を用意して待っていようと思ったからだった。
 早見のくれた、ポストカードに書かれていたように。


 その日は、雨が降っていた。
 あまりいい予感のしない雨だった。
 真夜中の天気予報は、明日も強い雨だろうという予報を延々と繰り返していた。
 空港まで行くのに苦労するだろうな。
 こんなことなら、一緒に行くと言えばよかっただろうか。沈鬱な雨も冷たい風も、同行者がいれば少しは気が紛れるだろうか。
 明日の朝も雨なら、結衣ちゃんに連絡を取ってみようか。
 そうだ、雨なら。
 店の客足も悪いし、出来れば店を開けたくないし、そうすれば暇だから出迎えに行くのも悪くない。
 窓を叩く音が俺を不安にさせた。
 部屋の片隅に積まれた不似合いな菓子の山が、出番を失った道化師のような重い空気をまとっている。
 なにか気を紛らわせるものが欲しかった。
 この胸の苦々しさを紛らわせてくれる、煙草のような何かが。
 無意識に手が煙草の形を求め、代わりに目に入った文庫に意識が向く。読み終えたばかりの本を見て、途中で放置した本があることを思い出した。
 沈鬱な表紙の、ミステリ。
 あれは確かカウンターの脇に置きっぱなしだったはずだ。
 電気を消した店内に戻り、奥の部屋から漏れる明かりを頼りに、夢中で本を探した。
 明かりをつければすぐに見つかるのはわかっていても、俺の意識は頑なにそれを拒んだ。
 否応なしに目に入ってしまうだろう、一枚の紙切れが怖かった。
 乱雑な店内と格闘したあと、目当ての本を見つけてようやっと俺は一息ついた。
 あとはこの面倒な本を読みながら、適当なところで眠ればいい。心地よい夢は見られないだろうが、少なくとも雨の音はまぎれるだろう。
 そうして自室に戻った俺は、形のない予感が現実のものとなったことを知らされる。

 それは、字幕だった。
 無味乾燥な、感情を持たない文字の羅列。
 読まなければ。
 目を向けなければ。
 あるいは、部屋を出るときに電源を切っていれば。

 それは、間違いようもなく正しく、早見の乗った飛行機が霧の中で連絡を絶ったことを伝えていた。




 どれくらいの時間が経ったのだろう。
 今日も、雨が降っていた。絶え間なく音は鳴り続けている。
 部屋の隅では、相変わらず菓子の山がうずたかく積まれていた。
 鮮やかな色もどこか色褪せてしまったように見える。祭りの後に残された残骸によく似ている。
 ハロウィンはもうとっくに過ぎてしまった。
 この山を崩すことなく、時間は無感情に過ぎていった。
 沈黙だけが時を計り、埃だけが明確な足跡を残していった。
 何もかもが無音のうちに過ぎた。
 いつ、テレビを消したんだっけな。
 いつからこうして立ちつくしていただろう。
 涙はもう流れない。
 眼球ももう痛まない。
 ポストカードは今もあのコルクボードに貼られたままだろうか。
 耳にこびりついた雨の音が、時間の流れを攪拌する。
 早見は、この家に来なかった。
 不在だけが残される、この家に。
 世界はあっという間に正常さを取り戻したように見えた。結衣ちゃんは笑うようになり、街は繰り返し装飾をまとった。クリスマスを祝い、正月を祝い、幾度も季節を巡らせ、そしてまた十月が訪れる。
 今までも、そうしてきたように。
 俺は店を開けなかった。
 書き物もやめてしまった。
 あのとき、早見のポストカードに促されるように書いた短編が、俺の最後の作品になった。
 テレビもつけず、明かりもつけず、ポストカードも菓子の山も視界に入れないようにして日々を過ごした。
 たまに我に返っても、それらの無惨な残骸が俺に空虚を突きつけた。
 いつまでもこうしているわけにはいかないとわかっていても、淡い色彩を見るたびに、カラフルな飴を見るたびに、俺の身体はしびれて動かなくなった。
 俺だけが止まったまま、世界はそれでも動いていた。
 動いて、いた。

 俺だけが。



 ギッと鈍い音が遠くから聞こえた。
 店の扉だとすぐにわかった。
 一年間、開けなかった扉は、全身で来訪者を拒んでいるように見えた。ギ、ギッ、と何度も音は繰り返し鳴り、誰かの悪態が聞こえた。
「ああ、クソッ……」
 ぎりぎり大人がすり抜けられる程度に扉が開くと、男は無理矢理大きめの身体をねじ込んで店内に入ってきた。無理な動きのせいで、入り口近くに積まれていた本が崩れた。埃が舞い上がって男がむせる。
「積み過ぎだ、あの馬鹿!」
 むせながら文句を言う奇妙な男を、俺はよく知っていた。
 店に来るたび、本を積みすぎだ狭すぎだと文句を言う。だったら裏から入ってくればいいだろうと何度言っても、店から入ってくることをやめなかった。お前がカウンターにいるんだから表のが早いだろうがと、拗ねたように口をとがらせた。その姿を、今でもはっきり覚えている。
 男は器用に本を避けながら、カウンターを越えて俺のいる部屋まで入ってくる。
 手に小さな包みを持って、どこか気まずげに男は笑った。
「ハッピーハロウィン……あー、お菓子をくれなきゃ悪戯するぞってか?」
 まあ、菓子はもう持ってるんだけどなと、包みを持ち上げる。
 見覚えのある包装は、気のせいでなければ俺の好きなメーカーのチョコレートだ。とにかく甘くて、早見は一口で音を上げた。
「菓子なら、ある」
 鈍く傷む喉から、俺は必死で声を絞り出した。
 久方ぶりの声はみっともなく掠れていた。
 俺の声が聞こえたのか聞こえてないのか、早見の目が部屋の隅に追いやられた菓子の山に気付く。
 あーだかうーだか、ひとしきり唸ると、泣きそうな顔で笑った。
 笑うのか、お前は。
 埃をかぶった菓子の山の前で。
 貼られたままのポストカードを見つけても。
「待ってて、くれたんだな」
「悪いか」
 俺が言い返すと、早見は少し驚いたようだった。
 俯けていた視線を戻して、真っ直ぐに俺を見つめる。ここにいる俺の輪郭を確かめるように、何度も瞬きを繰り返した。
 その様子がどことなく滑稽で、口元が緩んだ。
 ふ、と息が漏れて、かすかな音ががらんとした部屋に響く。
 早見は今度こそはっきりと、笑みを見せた。
 俺に向けて、悪友の笑みを。
「悪くない。全然、悪くなんてないさ……」
 その笑顔も長くは持たなかった。
 声が震え、眉が歪み、閉じられた瞼から雫が落ちた。
「泣くなよ」
 膝をついて震える早見の肩に、俺の手が触れた。
 すり抜けるかと思った手は思いの外あっさりと早見に触れていた。ぬくもりが遠いのは、外の冷たい空気のせいか、それとも俺たちの存在の違いのせいか。
「ずっと待ってたんだ、お前のこと」
 涙を拭う男に、俺は声をかけ続ける。
 届いているだろうか。
 俺の言葉は、思いは。
 嗚咽に混じりながら、とぎれとぎれに早見が呟く。それは不鮮明で断片的で、わかりづらい言葉の破片だったけど、言いたいことはわかった。
「いいんだよ、こうして来てくれただろ。謝んなよ」
 震え続ける早見の髪に触れた。金色に染められていた髪は、幼い頃と同じ黒い色になっていた。あまり見なかったスーツ姿も、いつの間にか様になっていた。
 早見は変わり、俺は変わらなかった。
 変われなかった。
 そのことを早見に謝ってもらおうとは思わない。
「悪かった。……もっとちゃんと、お前を待っててやりたかったのに」
 甘い菓子を前に苦い顔をするお前を思う存分笑って、それから二年半分の話をして、そんな風に笑うために、待っていたはずだったのに。
「馬鹿だ、お前は馬鹿だ」
 早見が俺の襟元を掴んで言った。
「うん」
「なんで大人しく待ってなかったんだよ!」
「うん」
「なんで、――――なんで生きててくれなかったんだよ……!」
 はらはらと雫が俺の胸元に落ちる。
 けれど、それは俺を濡らすことなく、色褪せた畳の上に落ちた。
「……うん、ごめん」
 あの日、霧に襲われた飛行機は、目的地とは違う空港に降り立っていた。機体トラブルだったらしい。
 そして早見は、そこに乗ってなどいなかった。
 手違いがいくつかあり、何とか別の便に乗り込んで日本に向かっている途中だった。
 けれどそのことを、俺が知ることは出来なかった。
 俺はとうに、雨の中飛び出した道路で、濡れながら死んでいた。
 真夜中のことで発見が遅れた。見つかったときには俺は息をしていなかったし、身元がわかった頃にはもう全てが終わっていた。早見は家族に迎えられ、二年分の思い出話をし、俺の家に行くのを楽しみに眠っていた。そうして、俺がなぜそんな真夜中に家を飛び出して、行動範囲からかなり離れた場所で轢かれたのかもわからなくなっていた。
 それが、一年前のこと。
「ごめんな……」
 溢れる涙を受けながら、俺は呟いた。
 静かに早見の手が解かれ、俺から離れていくのを見ていた。倒れ込むようにして泣く早見を見下ろしていた。
「早見」
 声をかけると、緩慢な動作で顔を上げる。
 涙で汚れた悪友の顔を見たら、自然と苦笑が浮かんだ。
 お前は変わったけど、俺は変われなくなったけど。
 それでも笑えるようにはなったんだ。
「ずっと待ってたんだ……ずっと待つしかないと思ってた」
 早見が何か言おうとするのを視線で抑え、俺は続ける。
「今、こうしてお前は来てくれた」
 俺が好きだった菓子を持って、あの時の約束をやり直しに。
 このハロウィンの夜に。
「ありがとな」
 音もなく、俺の身体が輪郭を失っていくのがわかる。
 ずっと耳にこびりついていた、雨の音が消えていく。
 溶けて、いく。
 約束は果たされ、雨はやんだ。
 もう俺は待たなくていい。
 それは穏やかな終わりだった。
 早見が顔色を変え、何かを叫んでいる。
 なんだ、最後まで俺はそんな顔をさせるのか。
 少し苦い思いが残る。
 それでも、悪い気分ではなかった。
 悪くはない。
 雨音のように響き続ける早見の声が、心地よかった。



  魔法をかけて
  ずっと待っているから
  約束が終わる日を、待っているから


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2009.10.20. 原稿用紙29枚