On the day, Some day
ブーツが焼けた。
いや、ブーツだけじゃなくて、他にも。
捨て損ねて重ねてあった雑誌だとか、結構気に入っていたジーンズだって、苦労して手に入れたノートのコピーなんかも見事に。
それから、妹にもらったピアス。
どろどろに溶けて、見るも無惨な姿になってしまった。
妹からの誕生日プレゼントなんて柄でもないと、使わず大事に置いておいたのがいけなかったのか。それにしても、お返しにあげるはずだったブーツまで燃えるなんてあんまりだ。
一応、名誉のために言っておくと、俺の不始末が原因ではない。最近、ちまちまと起こっていた放火によるぼや騒ぎが見事に飛び火してきたのだ。
そうまさしく飛び火。
アパートの壁際に立てかけるようにして止めてあった自転車の籠に、古新聞を突っ込んでそれを燃やす。その程度のぼやで終わるはずだったのに、不幸なことにその自転車のすぐ上に俺の家の窓があり、さらに不幸なことに窓を開け放してたのだ。
だめ押しで、その日は強風だった。
風に煽られた火がはためくカーテンに飛び、窓際に積んであった雑誌やノート類や服やピアスやブーツに延焼したのだ。
長くて細くて美脚に見えるらしい、茶色のブーツ。
三年間付き合っていた彼氏が事故で死んで、ふさぎ込んでいたあいつにあげようと思っていた、のに。
『兄貴、聞いてるの?』
電話越しの妹の声。
少しだけ押し殺した声なのは、実家で電話をかけているからだろう。
一緒に住んでいる祖父母を気にして、小声になっているのだ。
「聞いてます聞いてますとも。ともかく俺は無事だし、そんなに焼けなかったし、金とかも全部無事だから」
『そういう問題じゃないでしょ。なんかあったら、すぐに連絡するって約束だったじゃん』
早くに両親を亡くした俺たちは、祖父母に育てられた。
ちょっとばかり過保護すぎる祖父母の元から、よくある流れで飛び出したのは俺。
いろんな意味で出来のいい妹はその辺りうまく立ち回っているようだったが、不良少年だった俺があの家に居続けるのはちょっとばかり無理があった。出来れば俺も、じいさんたちと喧嘩して過ごしたくはなかったので。
「だから悪かったって。あっという間に終わっちまったから、うっかり忘れてたんだよ」
呆然としている間に終わった火事。焼けた壁はもう直っている。
『――まったく……』
呆れた声。
それは怒っているというよりも、諦めているという感じだった。
もっとマシな言い訳を考えておきなさいよ、とそう言われている気分になる。
「てゆーかさ、何でお前知ってんの、火事んこと」
『……兄貴さあ、文法ってわかる?』
「たぶん?」
悪いな、お兄ちゃんてば意外と動揺してるんだ。
だってお前、あげる予定だったブーツも、もらったピアスも焼けちまって、ちょっと気まずいから連絡しそこなってるうちに、どこから聞きつけたのかいきなり電話が来たら狼狽だってするだろう。
まあ、国語の成績はクソ悪かったけど。昔から。
『火事のことは先輩が教えてくれた』
一呼吸おいて、妹が言う。
「先輩?」
どの?
と思って、一人しかいないことに気付く。
俺と妹で共通している知人がまず少なく、さらにその中で火事のことを知っていて、それを妹に話す立場にある人なんて、複数人数いてもらいたくはない。
「……上村先輩?」
名前を呼んだ瞬間、目の前に空が広がったように見えた。
どこまでも高く広く、そしてとても狭かったあのころの空。
俺は俺の家の俺の部屋にいて、火事の後始末のせいで雑然としている部屋が目の前に広がっていて、けれど両目は間違いなくあの日の空を捉える。
『そう、羽純先輩』
かすかにノイズの混じった妹の声が、俺の意識を引き戻す。
センパイ、上村センパイ
風邪ひくぜ? そんなトコで寝てたら
「相変わらず仲が良いんだな、お前と先輩」
俺と妹は高校が違う。
だというのに高校の先輩である彼女と、妹はいつの間にか仲良くなっていた。文化祭に遊びに来たとき知り合って意気投合したらしい。俺がいかに馬鹿で阿呆かという話で盛り上がっていたところまでは覚えているんだが、それ以降は心が折れそうだったので逃げたから知らない。
以来、連絡をまめに取り合い、ときどき一緒に出かけているらしい。数年経った今でも。
『兄貴さ、いい加減、告っちゃえば? せっかく近くにいるんだし……私のことは気にしなくていいし』
妹に恋愛の助言を受ける気恥ずかしさだとか。
その短絡さだとか。
気遣いに対する気遣いの滑稽さだとか。
それを言わせてしまう俺の無様さとか。
そう言えるくらいは癒えた心に対する安堵とか。
「………ばーか」
複雑に絡み合った感情を特にほどくこともなく、俺はただそれだけを告げる。
なぁ、センパイ
どうしていつも、屋上にいんの、
不良ぶりたいわけじゃないっしょ?
オレと違って
『今も好きなんじゃないの?』
少しだけ暗い響きの混ざった妹の声。
それは痛みだろうか、寂しさだろうか。
数ヶ月でどれほどの痛みが和らぐのかなんて、俺はもう忘れてしまった。
大切なものを、一瞬で、永遠に失う痛みを、俺は覚えていない。
はしゃぎ回る幼いお前が忘れさせてくれたから。
「昔の話だっての」
違わないよ、私もあんたも
私は雲を見て、あんたはタバコを吸う、
違うとしたらそれだけ
* *
よ、と言われて肩を叩かれた。
人気のない公園。
植えられた背の低い木が、長い影を伸ばしていた。
「よ、不良少年」
「……先輩」
振り向く前から、そこにいるのが誰だかわかっていた。
けれど一瞬、言葉を失ったのは、見慣れない髪の色のせいだ。
「似合わない」
挨拶代わりに俺は言った。
赤っぽい色はこの人には似合わない。容姿だけを見れば、また確かに似合ってはいるのだろうけれど、この人自身とは相容れていないように思える。
見慣れていないから、というだけではないだろう。
言われた本人はすぐに何のことだかわかったらしく、自ら前髪をつまんで傾く太陽にかざす。
「やっぱり? 前の色の方が評判なんだよね。いっそ黒にしてみるかなあ」
「黒?」
「憧れてんたんだよね、ホラ、わたし地毛がけっこう色薄かったでしょ?」
「ああ……いやでも、黒、ねえ」
想像してみて、少し笑う。今の色以上に似合わない気がする。
やっぱり駄目か、と先輩が肩をすくめた。
自覚あったのか。
さらに笑ってしまいそうだったので、ごまかすためにタバコを取り出す。
というか卒業して以来、ずっと会っていなかったというのに、前置きもなくこんな会話をしている自分たちも可笑しかった。
「タバコ、変えたんだ?」
「え、ああ……うん。なんとなく」
くわえて、火をつけて、
ふわりと浮かび上がった白い模様。
最近どう?と、聞きかけた言葉が口の中で止まる。
その前に先輩の真剣な顔にぶつかった。
「――アキラ君だっけ……残念だったね」
煙を見つめたまま、先輩が言った。
ああ、そうか。
唐突に出てきたその男の名前を、俺はあまり驚くことなく受け止める。
再会は偶然でなかったのかも知れない。
先輩は優しいから。
「大丈夫ですよ、あいつなら。今は駄目でも、なんとかなります」
呟いて口の中に広がる苦さを噛みしめる。
慣れ親しんだタバコの味か、それとも。
一瞬だけ、妹の泣き顔が浮かぶ。
「ふーん……」
先輩がくすくす笑った。
「川嶋、ちゃんとお兄ちゃんしてるんだ」
「……先輩、俺を何だと思ってたんですか」
「青春ド真ん中不良少年」
……。
いや、確かにあの頃はそんな感じだったのかもしれないけど。
「でももう少年じゃないね」
煙が伸びて天へ消える。いつか妹と飛ばしたシャボン玉みたいにもろく。
本当に、先輩?
俺が大人になったと?
「タバコ、似合うじゃん」
音もなく風に消える煙は、あのころと何も変わっていない。
タバコを変えようが、俺が少年でなくなろうが、誰が死のうが、変わることはない。
見上げる俺たちが変わるだけだ。
先輩を追いかけようと必死に勉強したあげく、受験で玉砕して自棄になったり反省して、俺も少しは成長したのだろうか。
先輩が、あのころとは違う微笑み方をするようになったように。
「………俺は、葉巻が似合うようになりたいです」
「ハマキ?」
きょとんと先輩が目を丸くする。
幾度か瞬きをしたかと思うと、我慢できないというように笑い出した。
「……ぷ――ははははははは!」
終いには腹を抱えて笑う。そんなに似合わないのか。
いいじゃないか。葉巻くわえて、白髪なんか生やしてさ、ニヤリと笑って「デッドオアアライヴ?」なんて。
「はは、は――あー、お腹痛い」
「失礼な」
「ゴメンゴメン……って、もうこんな時間」
先輩は公園の時計を見上げる。
このあと約束でもあるのだろうか。
「あの時計、三十分遅れてるけど」
「うそっ!?」
ほら、と腕時計を見せる。
「うわっ。私、この後予定あるんだ! じゃね、川嶋!」
走り出した背中。
あの頃と違う輝きで揺れる髪。
赤い髪が、夕日を浴びてさらにきらめく。
似合わないと思ったけど。
意外とそうでもないかもしれない。
「――――――――先輩!」
気がついたら、離れていこうとする背中を呼び止めていた。
振り返る、あの日の笑顔。淡い色の髪。
振り返る、今の微笑み。赤くきらめく髪。
そのどちらも、眩しいまま俺の網膜に焼け付いて残るだろう。
永遠とまではいかなくても。
「先輩、俺、あなたが好きでした」
すべてに反発していた幼さの中で、あなただけが眩しく見えた。
センパイ、上村センパイ、
どうしていつも屋上にいんの
「私も、川嶋のこと、すこ――――――――ぅし、好きだったよ」
振り返って、笑って、走って行く背中。
違わないよ、私もあんたも
高いブーツの踵が、強く見えた。
軽い音を響かせて石畳を蹴っていく、その姿が。
違わないよ、私もあんたも
私は雲を見て、あんたはタバコを吸う、
違うとしたらそれだけ
そうでしょう?
お互いにここしか逃げ場がないなんてね
俺は半分も吸っていない煙草を灰皿に捨てて、家に向かって歩き出した。
「葉巻が似合うようになりたいぜ」
呟きは、夕暮れの空に消えた。
* *
そういえばさ、と唐突に俺が言った。
「ブーツ、欲しがってたろ?」
『ああ、あれね。この前、バイト代入ったから、思い切って買ってしまいました、えへん』
携帯を片手に、胸を張る姿が簡単に想像できる。
無理をしているのかいないのか。
「――そうか、買ったのか」
そこに浮かぶ笑顔は、たぶん嘘ではないだろう。
『なに? ムダづかいとか言うんじゃないでしょうね』
「まさか。……今度見せろよ」
ブーツが焼けた。
落ち込む妹を励ましたくて、そしてどこかで先輩のことを気にしたまま買った、茶色のブーツ。
長くて、細くて、美脚の。
踵がきれいな音を鳴らしそうな。
『兄貴に?』
笑いを含んだ声。
ああ、もう大丈夫だな。
不意にそう思った。もう、きっと大丈夫だ。
俺も。
……お前も。
「春奈」
ん?と声が返る。
「ごめんな」
あげるはずだったブーツ。
もらったピアス。
どちらも形を失ってしまった。
案外、それはそれでよかったのかもしれない。
少なくとも、そう思えるような気がした。
『わかればいいわ、わかれば』
俺は笑った。俺が何に対して謝っているか、知らないくせに。
そして思った。
いつかまた、お前が新しい恋人を見つけて俺に紹介する日が来たら、話してやろう。
俺の壮大な夢と煙草の煙と、ブーツの関係性を。
その日まで、今はまだ秘密だ。
〜Fin.