さあ、灯りをともして
魔法をかけて
幻灯一夜 Have a nice trick-or-treating!
町中がどこか浮き足立っている。
といっても、僕はそれを窓のこちら側から静かに見つめるだけなんだけど。
僕はこの屋敷から出られない。
出たくない、のかな。よくわからないけど。
「どっちだと思う?」
すらりとした長身に訪ねてみる。
彼は困ったような沈黙を僕に投げかけた。
僕の唯一無二の親友は寡黙だ。だから彼と会話をしようとすると、自然と独り言を言っているようになる。一階のエントランスが見下ろせる手すりの上に座って、脚を揺らしながらしばらく待ってみたけど、彼は返事をくれなかった。
「出ようと思えば出られると思うんだ」
僕は彼を振り向く。
彼は僕の斜め後ろ、ちょうどエントランスから続く階段を上った突き当たりに立っている。彼の後ろにはきれいなステンドグラスがはめられていて、そこから左右に廊下が延びる。彼のいつもの位置だ。動くことはめったにない。
そこで彼は動くことなく、ずっと時を刻んでいる。
彼は時計だ。
僕が生まれたときからここにいて、ただの物としてではなく者として、この屋敷を見守ってきたことを僕だけが知っている。
「今までは外に行きたいなんて思わなかったんだけどね」
沈黙を続ける彼に向かってそれでも僕は声をかける。
返事はないけど聞こえているだろうし、何より彼は僕がそんなに返事を求めていないことをわかっているから、こうして黙っているんだと思う。彼はそういう人だから。
続きの言葉を言おうと口を開いたとき、大きな玄関の扉が軋んだ音を立てながら開いた。古い扉だから、ずいぶん大きな音がする。その音を聞きつけて、黒くて質素なドレスを着たお手伝いさんが奥から出てきた。
「早かったんですね、旦那様」
「今日ぐらいはな」
玄関から入ってきたのはこの屋敷の主。帽子を取ってお手伝いさんに渡すと、白い髪が混じった頭が見えた。彼は顔を上げて僕のいる辺りを見つめる。
「今夜の準備はできていますよ。お菓子もたくさん用意しましたし」
目を細める彼にお手伝いさんが楽しそうな声で言う。
彼は僕の方から目を外して、彼女に穏やかな笑みを見せた。
「……ああ、今夜は賑やかになるな」
「ええ、きっと」
彼の手から鞄を受け取って、彼女がぱたぱたと去っていく。
彼女の後を追って彼が歩き出したと思ったら、何歩か歩いたところで不意に立ち止まった。何か忘れ物をしたみたいに、また僕の方を振り返る。
「…………」
彼の小さな声は僕のところまでは届かなかった。
ただ、唇の動きが誰かの名前を呼んでいた。
僕はもうとっくに死んでしまっていて、だから誰も僕のことを見てはくれない。
生きている人は誰も。
「ぼっちゃん」
低い、少し掠れた心地良い声が後ろからした。
振り向くと背の高い男の人が立っていた。茶色い帽子をかぶり、似たような色のチェックのベストとズボンを着ていて、すごく姿勢が良い。
「……時計さん」
僕の声は泣きそうだった。
「旦那様は毎年この日には早く帰ってきてくださいますよ」
「うん……知ってる」
こうやって、僕の前に現れると時計さんはとても雄弁になる。
「わかるのかな、僕がここにいること」
「どうでしょう。わかるのかもしれませんが、もしかしたらぼっちゃまが亡くなられたときのことを思い出しているのかもしれません」
僕が死んだとき。
やんちゃばかりの子どもで、あの日もこうやってこの手すりに座って父さんが帰ってくるのを待っていた。そうしたらバランスを崩して落ちて、気がついたらまたここに座っていた。目の前には時計さんがいて、私の声が届いたならすぐにでも叱って危ないことをやめさせられたのにと、とても悔やんでいた。
他のことはあまり覚えていない。
しばらくの間とても静かで、時折誰かの泣く声が小さく響いていた気がするぐらい。
「旦那様はとても深く嘆いていらっしゃいましたよ」
僕の考えていることがわかったのか、時計さんがそう言う。
「……そっか」
うつむくと足の下に磨かれた床が見える。
昔も今も怖いなんて思ったことはないけど、もう痛いこともないんだよなあと思うと何故だか少し悲しかった。
ステンドグラスを赤く染めながら夕暮れが過ぎて、屋敷の外がとても賑やかになってきた。玄関にはカボチャのランタンが置かれて、その隣にたくさんのお菓子が用意されている。
上着を脱いだこの屋敷の旦那さんとそのお手伝いさんが玄関の前で待っている。
外のざわめきが近くなってきた。
ぎいっと大きな音を立てて扉が開くと、町のざわめきがエントランス一杯に響いてくる。
「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!」
子どもの高い声がいくつも重なる。
笑い声もたくさん聞こえる。
お手伝いさんが楽しそうに一人一人にお菓子を手渡していった。今年はクッキーみたい。
「去年はアメだったよね」
そう呟くけれど、時計さんからの返事はなかった。
いつだったか、僕がまだこの手すりの上に座ってお父さんを待っていたころ。あんな風に笑いながら町中を駆け回るだろうことを疑いもしなかった。お化けの衣装も準備して、どんなお菓子がもらえるのかわくわくして、なによりも鮮やかに飾られた町に心が躍った。
「あの時のお菓子は、何だったんだろうなあ」
僕がもらうことができなかったお菓子。
たくさんのお菓子を抱えて子どもたちが去っていく。それをお手伝いさんと旦那さんが静かに見送っていた。
扉が音を立てて閉まって、喧噪が少し遠くなる。
「ぼっちゃん」
すぐ隣から声がする。いつの間にか隣に立っていた時計さんが優しい目で僕を見下ろしていた。
「外に行きませんか?」
低くて少し掠れた、心地良い声。
その声が僕が好きなのは……ああ、そうか、父さんに似ているから。
「外に?」
「今日はハロウィンですもの、ぼっちゃんが交ざってもきっと大丈夫ですよ」
そう言って微笑む時計さんの手には、ずっと昔に用意した僕の衣装がある。大人用のコートと三角の帽子。一緒に用意した木の棒のステッキはさすがにないみたいだけど。
「外に出たいと、思い始めていたんでしょう?」
「……でも、僕が行っちゃったら淋しくない?」
時計さんの手から衣装を受け取りながら、うつむいて呟く。
彼の手が一瞬止まって、それからゆっくりとしゃがんだ。僕と同じ目線まで。
「大丈夫ですよ。旦那様たちがいますし、それに、ぼっちゃんが笑んでくれることの方が嬉しいです」
笑って、時計さんは僕に大きなコートを着せる。
そして僕の手を取って立ち上がると、いきましょうかとやさしく言った。
僕は幽霊でも涙は出るんもんなんだなあとか、そんなことを考えていた。
ハロウィンの夜はとても賑やかだ。
こうして子どもたちに菓子を配っていると、彼はずいぶんと年を取ったことを感じてしまう。
「お菓子もそろそろなくなりますね」
楽しそうに手伝いに来てくれている女性が言った。
そうだな、と彼はうなずく。
扉の向こうの喧噪も少し穏やかになってきたようだ。
と、その時、きぃと遠慮がちに扉が音を立てて開いた。
おずおずと小さな子どもが顔を覗かせている。友達とはぐれてしまったのか一人だった。
「ええと……お菓子をくれなきゃイタズラするぞ」
まだ十を数えたばかりだろう、小さな声は高くてか弱い。
「あら、かわいい魔女さん。こちらへどうぞ」
大人用のコートに三角帽子をかぶった少年は、嬉しそうにはにかんだ。
彼はその少年を少し驚いた様子で見つめている。それから穏やかに苦笑すると、菓子を手に取って彼に渡した。
小さな手に落ちるクッキーを嬉しそうに少年は眺めている。
彼の兄が死んだのは、もう何十年も前のことだ。
それだけの時間が流れる間に、彼の父も母もそして妻に迎えた女性も逝ってしまった。
幼いころなくした兄以外は、皆穏やかにその時を迎えたので彼もあまり悲しまなかった。だから彼は今一人でいることに寂しさを抱いてはいない。
それでも、この日ばかりは。
かつて兄が突然逝ってしまったこの夜だけは、小さな後悔が胸を埋めるのだ。もしもあのとき、彼のそばにいたならと。
彼を見つめる少年を見つめて、彼は目を細める。
「……あの日も、用意されていたのはクッキーだったんですよ」
彼がそう呟くと少年はきょとんと彼を見つめ、隣で手伝いの女性が不思議そうな顔をした。
じっと三角帽子の下の少年の顔を見つめていた。
少年もまた彼を見つめていた。
そして短い沈黙が過ぎて、
「――そっか、食べたかったな」
と、少年が笑った。悲しみも後悔もない、まっすぐな笑顔だった。
かつてと変わらない笑みに、彼が思わず名前を呼ぼうとした瞬間、少年がぱっと身体を翻した。灰色のコートがふわりと広がる。
入ってきたときと同じように、きぃっと小さな音とともに扉が開き、少年がその小さな身体を滑り込ませる。忘れ物を思い出したように顔だけを出して、少年はもう一度彼を見た。
「先にいってるから。それと、時計を大切にしてくれよ」
じゃあな、と言って少年は行ってしまった。
はっと我に返った彼がその後を追って外に出たとき、少年は屋敷から遠く離れた道を背の高い青年と並んで歩いていた。楽しげな人並みの合間に、彼らの後ろ姿が見える。
不意に青年が立ち止まって振り返る。隣にいた少年もそれにつられて振り返る。
青年が小さく頭を下げた。少年が笑って、大きく手を振った。
呆然とその様子をみていた彼は、やがて涙を堪えるように苦笑した。
「……さようなら、兄さん」
それは、何十年ぶりかに呟いた兄への弔いの言葉だった。
さあ、ランタンに灯りをともして、お菓子も充分用意して。
魔法をかけて待っているから。