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 『空中ブランコはございません。
  火の輪くぐりもございません。
  かわいい虎もおりません。
  されど我ら月詠サーカス。
  古今東西あらゆる夢をご覧に入れます。
  窓をくぐっておこしください。』


 そんなチラシが窓枠に挟まっていたのは、瞬きのような夏が終わろうとしている、まさにそんな日だった。
 錆と鉄骨で出来た僕の住む家は三階建てだ。鉄柵に囲まれた息苦しい室内からは細切れの景色が見えて、双子みたいな向かいの建物としんしんと灰を吐き出す薄曇りの空とを切り刻んでいる。
 そんな日常を笑うように、儚げなうす水色のチラシが、華やかなサーカスを謳う。
「おいでくださいって言われても」
 ヒラヒラとチラシを弄ぶ。
 地図、という文字の下には細い線で枠が囲ってあるが、場所を表す図や文字は何一つない。
 ただぽっかりと、白い色が重ねられているだけだ。
「月、だよなあ」
 少し歪に見える丸。満月からほんの少し欠けた半端な月。
 地図の代わりに月の絵とは、このサーカスは夜空の上で興行するつもりなのか。
 のろのろと窓辺によって、刻まれた空を見上げる。
 薄曇りの灰の向こうに、白いかすかな輝きを見つけて、思わず「あ」と呟いた。
 灰色の空に今にも溶けて消えてしまいそうな、半月。
 手に持っていたチラシを掲げて、すかすように仰ぎ見た。
 きっと灰を降らせるあの雲がなければ、この絵のように儚げで繊細な昼の月が楽しめたのだろうに。太陽の光さえ遮る灰の前では、弱々しい月など目をこらさなければ見えない程度の存在だ。
 誰にも気付かれず、関心も引かず、ひっそりと呼吸することだけを許されて生きている。
 溜息をついて俯くと、そこに極彩色の布があった。
「へ?」
 一歩足を引くと、もふんと柔らかい布地にバランスを崩す。
 慌てて振り回した腕を、大きな手がしっかりと掴んだ。
「ようこそ、我らが月詠サーカスへ!」
「ええええ?」
 ぐいっと腕を引かれてたたらを踏む。そのまま腕を取られて一回転。辺り一面極彩色の世界が広がっていた。
 のしかかるような布の天井は紫、壁は赤と黄色の目に痛い星柄。所々にある青や緑の差し色がさらに眼球を刺激してくる。
 その派手な壁も、控えめなランプの灯りではゆらゆらとうごめく影が浮き彫りになるだけで、鮮やかさが逆に恐ろしく見える。
「こんにちは、我が友。あなたは栄えある真昼のお客様。どうぞ我がサーカスをお楽しみください」
「いや、友達ではないですよ」
 目の前でがばりと両腕を広げたのはピエロだった。赤と黒と白の衣装を着て妙に腕が長い。頭一つどころか二つぐらい上にある肩から、にょろりとまるで別の生き物みたいに伸びる一対の腕。鮮やかな白の手袋がひらひらと踊る。
「あなたは真昼のお客様ですから、ここにいらしたときからお帰りになるまで我々の友人です」
「じゃあ、夜に来たら友達ではないの?」
「ええ、もちろん! 夜のお客様は我らの同胞、ここにいらしたらもう我らの家族です」
「ふうん……」
「さあ、ご友人、何からご覧に入れましょう? 人に生まれ死から蘇った猫? 眠れる柱時計? 死者の部屋に咲く雪の花? フランケンシュタインのカクテルなんかいかがでしょう? 美味ですよ?」
 ネジを巻きすぎたからくり人形みたいな動きで、ピエロが声を張り上げる。時折声がひっくり返るのが耳障りで不快だった。
「ちょ、ちょっと待ってよ、サーカスなんでしょう? 何その変な……品ぞろえ? えっ、ていうかそれ、物?」
「おや。チラシはごらんになりませんでしたか?」
 ぴたりとピエロが動きを止めて振り返る。
「私どもは月詠サーカス。見せるものはひとときの夢にございます」
 くるりと。
 ピエロがその手のひらを返す。白い手袋の上には、明るい色のリボンが置いてあった。派手すぎない、健康的なオレンジ。
 怪しげなランプしかないこの空間で、まるでリボンそのものが光を発しているかのように、鮮やかに浮き上がって見えた。
「まあ、まずはお試しあれ」
 リボンを持っていないピエロの手が腕を掴む。しゅるりと軽やかな音がして、柔らかで少し冷たいリボンの表面が手首の一番細いところを滑っていく。
 きゅっ、と丁寧に結び上げられた瞬間、重くのしかかっていた天井が吹き飛ぶようにどこかへ消えた。
 突き抜けるような青空。
 明るい雲と、眩しくて暖かい太陽。
 一面に広がる緑の草に、地平線まで途切れることなく続く道。
 きちんと整備されたのではなく、たくさんの人が歩いたがゆえにそこに残された道だと、なぜかすぐにわかった。
 その道から少し外れたところ、足首くらいの草がさわさわと風に揺れる中、一人の男が空を見上げて立っていた。赤い髪が柔らかな風に揺れる。
 頑丈そうな布で作れた服を身にまとい、大きめの麻袋を背負って、なぜか肩には手のひらサイズの人形のような物を乗せていた。妙な男だったけれど、特異な存在だとは思わなかった。
「世界は広い」
 ぽつりと男が言った。
 空に向かって放たれた声は、穏やかな声音でこそあれ、その言葉の奥には揺るぎない期待が踊っていた。
「俺はもっともっといろんなものが見たいんだ」
 男が不意に振り返る。
 子供のような表情だった。楽しさを隠しきれない。
 なあ、お前は?
 そんな声が聞こえたような気がした。お前も一緒に行こうよ、行きたい。男の感情が言葉ではない何かが、染み入るように入り込んできた。
 誰に向かっての言葉なのだろうか。
 そう思って振り返ったとき、唐突に景色が途絶えた。
 青い空が紫の天井になり、果てのない草原は目に痛い壁となってそびえ立った。
「……あ、れ?」
 しゅるりと、どこかで聞いた音がする。
 手首からオレンジのリボンがするすると離れていくところだった。
「いかがでしたか?」
 丁寧にリボンを巻きながらピエロが問いかける。
「いかがもなにも、よくわからなかった」
「まあ、お試しですから」
 ピエロがまとめ終わったリボンを宙へ投げると、それは弧を描かず天井にほど近い辺りでひっかかるようにして止まった。
「ちなみに今のは、天性のお祭り男の夢……といったところでしょうか」
「なにその急に適当になった感じ」
「実はまだまとまっていない夢でして。お試し用ですからご容赦ください」
 かくり、とピエロが首を落とすと、今度はくるくると手のひらを回し始めた。
 その手の中から、次々と色鮮やかなリボンが現れては宙に浮かんでいく。
「ご紹介いたしましょう。こちらは今まさに売り出し中の意外とシビアな少年吟遊詩人の夢、あちらは温和で少し情けない魔術士と機械を求める少女のめくるめく冒険の夢、そしてこちらが心を持った元素たちにまつわる夢、それから向こうが何も見ずすべてを見通した赤い目の夢」
「なんか、小説みたい」
「作られた物語と夢は似て非なるものですよ、我が友人」
 くるくるとピエロの動きに合わせてリボンが踊る。
「ここに用意した夢は一つ一つ違う夢ではありますが、実は目に見えないところで絡み合っているのです。お試しの夢、あれもその一つ。ですからご友人、貴方が見た夢の続きがここにあるかもしれません」
 いかがです?と差し出されたリボンたち。
 つややかなブルーグレイ、落ち着いた赤と緑の格子縞、光の向きで色を変える鮮やかな白銀、白いラインで飾られた赤。
 そのどれかを手に取ればさっき見た赤毛の男がいるのかも知れないし、彼が向き合った誰かがいるのかも知れない。もっと全く違う誰かがいるのかも知れない。
 魅入られたように、この鮮やかな色から目が離せなかった。
 さあ、と叫ぶピエロの声が遠い。
 遠くからかすかに鐘の音が聞こえてきた。
 重く、けれど穏やかに鳴る、あれは僕の街の鐘だ。僕の街。灰とサビと鉄柵に覆われた、重苦しく冷たい街。
「帰らないと」
 そう呟くと、こくりとピエロの首が傾いた。
「おやおや、もうお時間でしたか」
 残念そうにそう言うと、宙に浮いていたリボンが、ぽすぽすと手袋の中へと落ちていく。
「しかたありません、あなたは大切な真昼のお客様。夕闇を迎える前に、どうぞあちらが出口になります」
 リボンを持ったままのピエロの手が背後を促す。
 そこには重厚な扉が口を開けていた。
 吸い込まれるように、その暗闇の中へと足を踏み出す。
「お見送りは出来ませんが、足下と月にはくれぐれもお気をつけを」
 ピエロの声が暗い空間に歪曲して響き渡る。ぐらぐらと頭が揺れる。夜の客は。どこをどう跳ね返ってきているのか。我らの同胞。断片化された言葉が波紋のようにあちこちで広がっては収縮する。帰りの道は。自分がまっすぐ立っているのかも怪しくなって壁に手を伸ばす。ございません。手のひらが空を掴んだ。
 バタン、とクリアな音が背後で鳴った。
 はっとして振り返ると、薄暗い部屋の中、部屋に入ってきた同居人が驚いた顔をして僕を見ていた。
 なんだいたの、と気まずげに呟いて部屋に明かりを灯していく。
 窓に向き直るとすっかり日が落ちた街があった。鉄柵に切り刻まれた、灰にけぶる街。向こうの建物の明かりがぼんやりと闇の中に揺らめいている。
 灰色の雲に覆われた空に、月の姿はなかった。ほっと息が漏れる。
 そんな僕の様子を、同居人が不思議そうに見つめている。
 遠くで、いつもの鐘が鳴った。




  されど我ら月詠サーカス。
  月を見上げておいでなさい。




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「水夏月十夜」寄稿 2012.8.25. 原稿用紙12枚