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Last Time for You



明日世界が終わるのならば、今を誰と生きますか?


 1.refrain ―― only once

「なんだ、それ」
 私の問いに、あなたはいつものように苦笑する。
 うっすらと浮いた髭も、わずかに下がった目尻も、大きく豪快な口元も、頭に巻いた汚れた白いタオルも、いつもと変わらずいつものあなただった。
 苦笑しながらも、顎に手を添え宙を仰ぐ。真剣に考えてくれるようだ。
 晴れ渡り、綿雲がゆったりと流れる空を見て、あなたは苦笑を消す。
 軽薄そうに見られ、事実多くの局面においてそうであるあなただが、私の前では少しばかり様子を変えてくれる。普段とは違うあなたの態度について指摘したとき、やはりあなたは苦笑をして、お前につられてるんだよと言った。喜ぶべきか困るべきか奇妙な顔であなたを見つめたのだろう、あなたもまた自分の感情を計りかねて奇妙な顔をしていた。
 私とあなたは、おおむねそういう関係だった。今までも、そしておそらくこれからも。
「そうだなあ、やっぱりダチん所に行くだろうな」
 ダチ。と私が口にする。どの「ダチ」だろうかと考える。
 あなたの「ダチ」は(私を含め)非常に多い。その考えがわかったのか、あなたはまた苦笑する。
「ああ……おまえの知らないダチだよ。病院にいんだ」
 病院。健康的な彼には全く似合わない場所だ。
 あなたは流れる雲を見つめながら、あいつなぁ、と呟く。それは独り言のようであり、おそらく「私」という人格ではなく、「聞き手」という概念に向かって放たれた言葉だと思ったので、相槌も打たずにただ聞くという行為だけを続ける。
「あいつなあ、なんか生まれつきの持病とかで学校にもほとんど行ってないんだよ。入院ばっか。俺が中学んときだったか、事故って足の骨折って入院してさ。それで知り合ったんだけど」
 それからあなたは少し言葉を切る。何を言って何を話さないかという判断を下しているわけではないようだ。あなたの意識は古く色あせた――けれども鮮やかな記憶の合間を漂っている。それがあなたに口をつぐませる。思い出として、過ぎ去ったものとして語るには、切なすぎる情景。
 セピア色に切り取られ変色した記憶たち。
 その愛おしい変化をあなたは噛みしめる。
「まあ、とにかくそいつ普通の友達とかいないしさ、親はたぶんいてくれるだろうけど。世界が明日終わるなら、今からあいつに会いに行くよ」
 苦笑ではなくあなたが微笑む。いつもの豪快な笑顔とも、私に向けられることの多い苦笑とも違う、おそらくそのダチに向けられるはずの微笑。
 そう、あなたは会いに行く。
 いつもと変わらない格好で、いつもと変わらない微笑みで、あるいは少し変わってしまったかもしれない道を歩いていく。あなたの友人はあなたを見て、いつもと同じように迎え入れるだろう。そしておそらく、あなたの友人の両親も、少しためらいながらいつもと同じように微笑みかけるだろう。
 白く統一された病室で、初夏から夏へと変わりゆくわずかに湿気をはらんだ風が、はたはたとカーテンを揺らす。病室には静かな緊張感と、努めていつものように笑う人たちがいる。
 廊下やその向こうからは、時々悲鳴めいた声や物音も聞こえるが、あなたたちは苦笑をしてやり過ごす。どうしようもなく現実があなたたちに牙をむいても、あなたたちはつとめて平穏に時を過ごそうとする。小さく区切られたその白い一室だけが、あなたたちの唯一の空間であり唯一の世界になる。
 そうして、いつもと同じように、最後の瞬間まで。
 けれど最後のその瞬間、あなたの友人の両親があなたの友人を抱きしめるだろう。涙を流しながら。愛の言葉と誰へかもわからないような謝罪を繰り返しながら。強く強く、抱きしめるだろう。
 終わりを恐れているのではない、拒んでいるのではない。受け入れるために。そのための衝動が彼らを突き動かす。
 その肩越しにあなたの友人はあなたに笑いかける。困ったような恥ずかしいような、泣くのを堪えているような笑顔で。
 それをあなたは同じような笑顔で受け取り、そして返す。
 あなたの友人の両親があなたに気付き、名前を呼んであなたを促す。あなたはためらいながら、やせ細った友人の肩に腕を回す。そのあなたの肩に、あなたの友人の両親が腕を回す。あなたの眼からは涙があふれる。
 いつも通りではありえない。一度だけ――たった一度だけ、最後の瞬間にしか訪れない、そのどうしようもない感情の渦の中で、あなたたちは涙を流す。
 あなたは友人の嗚咽を聞きながら、かつてのセピア色の病室を思う。今の病室を思う。
 ありとあらゆる思い出を抱いて。

 それが、あなたの最後。

 しばらく時が止まったような沈黙が流れる。
 雲がゆったりと形を変えながら、建物の陰に隠れるまで私たちは遠い仮定の時間をそれぞれ見つめていた。
「うん、やっぱりあいつに会いに行く。何があっても」
 あなたは遠くを見たまま呟く。固い決意が見えた。
「でも何でいきなりそんな質問するんだ?」
 あなたが少し眉を寄せて私に問いかける。
 私は答えない。あなたのように苦笑してみせる。
「おかしなやつ」
 笑って、あなたは私の頭を軽くたたいた。
「そういうおまえはどうなんだよ」
 真剣な眼ををして私と向かい合う。
 私は少し思案してから、用意していた私の最後を語り始めた。




 2.refrain ―― Once again

「それ、僕に聞いている?」
 あなたは可愛らしい仕草で首をかしげる。すると首輪につけてある鈴がちり、と音を立てる。あまりきれいとは言い難い安い音だが、あなたには慣れ親しんだ音だ。
 わたしが頷くと、あなたは「やっぱりあなたは変な人だ」と呟いた。それは自覚していることだし、聞こえないふりをしてもおかしくない声のトーンだったので、私は特に何も言わないでおく。
「そうだなあ」
 あなたは言いながら、積み上げられたビール瓶のケースの上を軽やかに飛び上がり、私の身長よりも高い塀の上に、あっという間に座り込む。そこはあなたが愛用しているひなたぼっこの場所だ。この時期のこの時間のそこは、そのために作られたようなかぐわしい日差しの中にある。
 あなたの白い毛並みが、あたたかな光を受けてきらきらと輝く。
「普通に僕のご主人さんの所に行くかな。……違う、帰るね」
 顔を洗いながら、いや駄目だね散歩ばっかだとどこが家か判らなくなるよと、あなたはひょうひょうと語る。真剣であればあるほど、真剣でないような顔をする。まったくもってあなたらしい。
「うん。帰る。だって僕の居場所はご主人さんの所な訳だし、ご主人さんは僕がいないと泣くだろうし、他にこれといって行くところもないしね」
 あなたは顔を洗うのをやめて、腕をなめ始める。独特の舌が毛を毛羽立たせる。
 私は少し意地悪をしたくて、恋人がいたらそっちに行くのかと聞いてみる。あなたは案の定いやそうな顔をして、そういうからかいたいって意図が明白の質問するのやめてよと言った。
「第一、猫に恋人なんて概念ないよ。人間が好き勝手価値観作るのは勝手だけど、それを猫にまで押しつけないでほしいね」
 私は失礼しましたと言う。意地悪はしてみたくても機嫌を損ねたくはなかったので。
「……もしもの話なんて嫌いだけど、もしも人間でいう恋人のような存在があったとしても、僕は帰るよ」
 あなたは毛繕いをやめて空を見る。ビルとビルに挟まれた狭い空が、あなたの日常だ。
「明日で最後なんでしょう? だったら、最後においしいもの食べたいもの」
 ちりん、と安い鈴の音がなったが、不思議と先ほどよりきれいな音がしたようだ。空気がその質を変えたのだろう。見上げるとビルの向こうから厚い雲が顔を見せている。湿気の混じった風が吹き、雨の気配を呼び込む。
 そう、あなたは飼い主のもとに帰って行く。
 日課の散歩の途中でも、ふらりと気分でてかけた小旅行でも、あなたは飼い主の元に帰るだろう。
 最後なんてなんてことはない、今を生きるのさと全身で示して、細くしなやかな尻尾をぴんと張って、まるで凱旋のように家路をゆく。
 それを涙で腫れた眼をしたあなたの主が抱き上げる。あなたの名前を何度も呼び、心配したと訴える。言葉が通じないと知りながら、思いは通じると語りかけ続ける。
 あなたはそんな主を少し恥ずかしく思いながら、照れ隠しに餌を催促するよう鳴いてみる。あなたの主は呆れたように笑いながら、とっておきの餌を出してくれるだろう。最後の晩餐だと薄く微笑みながら。
 あなたはそれを、これが目的だといわんばかりに食べる。そして食べながら、不意に離れようとした主の手に尻尾を絡ませる。主は一瞬目を見開き、それから笑う。泣きはらした赤い眼に、もう一度涙がにじむ。
 あなたの主があなたの名前を呼ぶ。静かな声だ。あなたは晩餐の途中だが、珍しく顔を上げる気になる。目が合うと、あなたの主はあなたを抱き上げ、あなたの額に口づけをする。暖かいその感触に、あなたは目を閉じる。
 またあなたの名前が呼ばれる。
 あなたは動かずにそれを聞く。
 柔らかい沈黙が遠く空を行く雲のように流れ、やがて暖かい日差しもビルの合間に消える。静かに静かに、あなたたちの時間は過ぎる。時折、思い出したように主があなたに語りかけ、あなたはそれにしっぽを振ったり顔をそらしたりして答える。
 そうして、あなたと主の長い影が部屋に伸びる。
 あなたは主との出会いを思い出そうとするが、あなたにはうまくできない。見慣れた顔を見上げると、そこには優しいほほえみがあった。
 出会ったときも笑っていたと、唐突にそれだけを思い出す。あるいはあなたの主は、あなたより鮮明に思い出しているのかもしれない。薄汚れた路地裏で、はじめてあなたと主が出会い、主の腕があなたを迷いもなく抱き上げたときのことを。その暖かさにあなたが少し戸惑ったことも。
 かつてと同じように――もう一度、あなたたちはほほえみ合う。
 巡り会えたときと同じ表情で、見つめ合う。

 それが、あなたの最後。

 何も考えていないようにも、思いを巡らせているようにも見えるあなたが、空を見上げ続けている。あなたの金色の瞳に、曇り始めた空が透ける。絶好の日向はもはや見る影もなかった。
「僕は帰るよ」
 あなた自身にか、あなたの主にか、あなたは約束をするように言う。とても大事に大事に、その一言を呟く。
「で、僕が答えたからには、あなたも教えてくれるんでしょう?」
 あなたが意地悪く振り返る。
 ちりん、と鈴が安い音を響かせた。
「あなたが誰と過ごしたがってるか、少し興味があるよ」
 それはどうも、と私は苦笑する。
「それで?」
 と、好奇心を隠せない様子で促すあなたに、少しもったいぶらせながら、用意していた私の最後を語り始める。





 3.refrain ―― More then once

「ああ、なるほど」
 あなたはあまり表情のない顔で言う。
 私はその返答の意味をつかみかねて、表情だけで問い返す。あなたは時々、私には及びもつかないようなところに会話を持って行く。それを引き戻すのは悪い気もするが、今は具体的な答えがほしい。
「いや、君がそんなに真剣な顔をして質問するからなんだろうと思ってたから」
 なんとなくわかったけれど、一応つまり?と問い返す。
「つまり、ああ、こういう質問をしたかったのか、なるほど君らしい」
 今度は私がなるほどと言い、そして答えを促す。
「うん、そうだね。私は一人でいると思うよ」
 あなたはあっさりとそう言った。さびたフェンスに体重を預け、雲に覆われた空を見上げるあなたは、一枚の絵のように見える。幾重にも重なり合った雲が奇妙な陰影を描き、複雑なあなたの心と共鳴する。
 あなたの髪が風に揺れ、風の動きを目に見える形で私に教える。
「予想してたって顔をしてる」
 あなたが私を見て笑う。私は静かに頷いて、なんとなくと言う。あなたはそういう人だと思ったと続ける。あなたはくすくすと笑っている。
「私は絵描きだから。最後の最後まで、自分の世界と向き合い続けるよ」
 あなたの声は少し低く、強くなる風の音に時折かき消されそうになる。それでもあなたは声を強めることをしない。私は孤独はつらくないかと聞いてみる。するとあなたはまた笑う。
「つらいよ。つらいけど、これが私の道だ。私の選んだ結果だ。だったら私は選び続けなくてはならない。それが今までの私に対する今の私からの敬意」
 一定の方向性を保つのをやめた風が、乱暴にあなたの髪をかき乱す。あなたはそれを平然と受け止め、白く細い手でいなす。髪を押さえつけて見上げた空に、あなたは何かを見いだした。
「最後の日は、どんな景色を私に見せてくれるんだろうね。……いや、きっと――――」
 あなたの呟きが風に消されたのか、あなたの意志で消したのかは私には判らない。けれど続く言葉は私にもわかる。
 きっと、それはうつくしいだろう。
 世界の終わりで、あなたは一人うつくしい景色を前にたたずむ。その景色を目に焼き付けながら、あるいは白いカンバスに写し取りながら、あなたは自分の世界と向き合い続ける。
 そう、あなたはあなたの内側に会いに行く。
 あなたの瞳は目の前の光景を写し、あなたの世界を写す。あるときは、あなたは荒涼とした砂漠に立ち、あるときはきらきらと揺れる水面の下をたゆたい、あるときは夕暮れのビルの狭間に残され、その中であなたは、最後の景色を描き続ける。
 空を廃墟を人を風を雨を炎を命を、ありとあらゆるものをあなたの目は捉え、あなたの感覚は掴み、あなたの手が切り取る。
 愛用の筆が一色一色を丁寧に、そして強く、あなたの世界を積み上げていく。そして世界の終わりを描いていく。
 カンバスの上に描き出される光景は、次々と新しく塗り替えられ、決して完成を見せないだろう。永遠に続く未完、それこそがあなたが最後に向き合うべき、あなたの最後の作品。いや、作品にすらならない、あなたの咆哮。音なき慟哭。
 これが選んだ道だと涙を流しながら、濡れた頬を拭うこともせず、あなたの筆はすべての色を描き残す。一瞬を永続させるために、永遠を切り取るために。すべての感情を残すために、あらゆる感動を打ち壊すために。
 それは悲しい絵かもしれない。涙に汚れた醜い絵かもしれない。
 けれど何より、うつくしい絵となるだろう。
 あなたはあなたのアトリエで、ただがむしゃらに筆を走らせ続ける。外から悲鳴が聞こえてもあなたの鼓膜はそれを受け入れない。油絵の具の匂いと、重く閉ざされた沈黙、それだけがいつもと変わらず存在し続けるあなたの世界。
 あなたの口が誰かの名前を呼ぶ。意識する間もなく、その名前は飛び出す。それが誰の名前か、あなたはよくわかっていない。それでも誰かの名前を呼ぶ。叫ぶ。そしてまた、新しい色を筆にとる。あなたの筆は決して休むことをしない。
 想いを託す人がいたことに、その存在が知らぬ間に意外にも心の多くを埋めていたことに、あなたは驚く。けれどあなたはアトリエを飛び出すことはしない。自らに課した運命と敬意が、その衝動を押しとどめる。名前を呼びながら、想いをすべて筆に託す。
 やがて未完で終わるはずの絵が一つの完成を迎える。最後の瞬間の直前に、あなたはそれに気付く。そこに浮かび上がる存在の印象を見つけて、あなたは微笑む。とまるはずのなかった筆が止まり、あなたの頬に幾度目かの涙が落ちる。
 目を閉じれば、ありとあらゆる世界があなたの前に広がる。そして、うつくしい世界の前にうつくしく醜い絵と、あなたがいる。
 あるいはそんな光景を、あなたは最後のその一瞬だけでなく――幾度も、今までに何度も、見ていたのかもしれない。
 まぶたに浮かんだ面影が、あなたにそっと微笑みかける。

 それが、あなたの最後。

 風がごうごうと音を立てて、私とあなたの間を抜けていく。雲が急き立てられるように形を変え、その姿をゆっくりと融解させていく。
 雲の陰影はより複雑になり、あなたの向こうに十字架のような影が現れる。あなたはそれに気付かない。私と向き合い、遠いあなたの世界を見つめ続けている。
 それは完成された一つの絵に見えた。額縁も永続性もない、一瞬のうちに無惨にも散ってしまう名画。
「やっぱり私は、一人でいるよ」
 誰かと過ごす自分を想像していたのだろうか、あなたは首を横に振って言う。
「それで?」
 と、あなたが聞いた。何を聞きたがっているかは判ったが、私はついあなたが具体的な言葉で言い直すのを待つ。
「君は誰と過ごすつもりなのかな?」
 あなたは笑っている。いつの間にか、あなたの背後にあった十字架は姿を消し、具体的には表現しがたい模様が生まれていた。
 私は特になんの気負いもなく、用意していた私の最後を語り始める。



 4.refrain ―― all at once

「そんなの決まってるじゃない」
 あなたは私の目をまっすぐ見たまま答える。さっきまで携帯をいじっていた手は、しんとして動かない。あなたは私をじっと見つめたあと、視線をそらして携帯を横に置いた。じゃら、といくつもついたストラップが音を立てる。
「あの人に会いに行く」
 あなたはガラスの向こうの街並みを、どこというでもなく見つめたまま呟く。
「あの人が誰か別の人といたら、隣じゃなくてもいい。あの人のそばにいる。あの人が見えないところで死にたくない」
 あなたは強く言い切る。けれど語尾はふるえている。
「あの人は、あたしの神様みたいな人なの。だったら最後までそばにいたいって思って当たり前でしょう」
 あなたは私の反応など待っていない。私の方は一切見ずに、歩いていく人を目で追っている。それはあなたにとって特別な誰かでもなく、ただ視線を固定するためだけの的のようなものだ。あなたが見ているのは、ここにはいないあなたの恋しい人の姿。
 でも、とあなたは手を固く握りしめながら小さくこぼす。
「……でも、できるなら隣がいい。隣に並んでいたい。あたしを見てほしい。あたしに触れてほしい」
 あなたの表情が悲痛にゆがむ。祈るように添えた手は、力の入れすぎで白くなっている。私は何も言わず、あなたの次の言葉を待つ。
 あなたは息を一つ吐くと、私の方に向き直る。白いテーブルに申し訳程度に乗ったコーヒーカップを手に持ち、一口飲んでまた戻す。あなたはいつものあなたの表情に戻っている。手はカップの細い取っ手を、長い爪で弾いている。
 長く演出したまつげが、重そうにまばたきをする
「ま、そんなことになったらどうするかなんて、ホントはわかんないんだけどさ」
 あなたは軽薄ともとれるような声で言う。そこにいたのは、いつも通りのあなただった。私といるときにも時折姿を見せ、親しい友人や家族の前では常にそうである、ごく当たり前のあなたがいた。今のこのあなたがあなたにとっての日常であり、私の前で時折見せるあなたはあなたにとってのイレギュラーだ。それはあなた自信も自覚していることであり、私と対面するときにあなたが居心地悪そうにしている理由だ。
 そう、と私が返すと、あなたはカップの中のコーヒーをのぞき込む。あなたが生み出した波紋が、ゆらゆらと光を無造作に反射している。
「……あの人、コーヒー駄目なんだって。紅茶党で、なんかすごくうるさいらしいの。すんごい高い紅茶買っていったら、一緒に飲んでいられるかな」
 最後の日に、とあなたは明確に言葉にしない。でも私はそれを受け取る。
 あなたはセーラー服を翻し、入ったこともない専門店へ向かうだろう。おそらくそこは、今までに何度も入ろうとして理由を見つけられず、何度も挑戦と諦めを繰り返した場所だろう。もしかしたら最後の日だからこそ、店主があなたのような人を静かに待っているかもしれない。
 そしてあなたは、慣れないものを持ちながら、慣れない道を走る。
 そう、あなたはあなたの恋しい人に会いに行く。
 強く焦がれる想いと、わずかな打算を持って。
 突然のあなたの訪問を知った、あなたの恋しい人は驚くだろう。そして驚きながらもあなたを迎え入れるだろう。
 あなたの恋しい人はあなたから紅茶を受け取り、少し照れながら礼を言う。あなたはそれを、とても満たされた気持ちで聞く。
 あなたの恋しい人が紅茶を入れるまでの時間、沈黙があなたたちの空間を密やかに包む。遠くから何か騒がしい音が聞こえることもあるが、あなたにもあなたの恋しい人にも、それらの音はあまり影響を与えない。
 やがて慣れない香りがあなたにまで届く。自分の分のカップが目の前におかれたことに、あなたはひどく感動する。無言のまま二人で紅茶に口を付け、あなたが紅茶の熱さに小さく悲鳴を上げる。あなたの恋しい人はそれを見て笑い、あなたは唐突に泣きたくなる。
 暖かいカップを握りしめたまま、あなたは好きと繰り返す。涙が頬を伝い、濃い紺色のスカートを濡らす。あなたは顔が上げられない。あなたの恋しい人の狼狽する気配が伝わる。
 それでもあなたは好きだと繰り返す。
 あなたは隣に体温を感じる。あなたの恋しい人が隣に座り直している。あなたは驚いて顔を上げる。優しい苦笑にぶつかる。
 ごめん、とあなたの恋しい人が言う。あなたの目は見開かれる。一瞬の間があって、ごめんとあなたの恋しい人が繰り返す。
 ごめん、気付いてあげれなくて。
 あなたの恋しい人があなたの頬を拭う。
 あなたたちは口づけをする。紅茶の香りがする。静寂の中、カップから上がる湯気が、踊るように揺れてそして消える。あなたとあなたの恋しい人は、それぞれの思いを込めて――一緒に、その様子を見つめる。

 それが、あなたの最後。

 あなたは波紋のすっかり消えた、コーヒー色の水面を見つめている。そこにはあなたも、あなたの恋しい人も写っていない。ただ安っぽい照明器具の明かりが写っている。
「絶対にあの人の所に行く」
 あなたは水面を見つめながら呟いた。長いまつげが静かに降りて、戻る。
 しばらくの間、あなたは水面を無言で見つめている。それから思い出したように手をテーブルに戻し、携帯のストラップをいじり始める。そして私の目をちらりと見てから、携帯に視線を落とす
「それで、アナタは?」
 私は苦笑をしながら私の分のコーヒーを口に運び、用意していた私の最後を語り始める。





 5.refrain ―― at once and

 私は会いに行く。
 あなたに。あなたに。
 あなたに。
 あなたはあなたの望む誰かと、あるいはあなたの望む孤独と時をともにしている。
 私はあなたまで辿り着けない。
 私はあまたのあなたを探し、あなたはあなたの望むものを探す。
 あなたを、あなたは。
 あなたは、あなたの。
 私は会いに行く。
 あなたに会いたい。

 あなたは誰?

 私は暗闇をさ迷うようにもがきながら、足を踏み出す。進んでいるのか、戻っているのか。一歩、また一歩。次の一歩で終わるかもしれない。私は恐怖に震える。震えた足をそれでも差し出す。
 私はあなたに会いに行く。
 それだけを考える。それだけを強く強く願う。振り切ったはずの未練が私の足に腕にからみつく。私が選び取らなかったものたち。あるいは、私が次に選ぶかもしれないものたち。
 私はただ、会いに行くということのために。
 あなたに。
 あなたに。
 あなたである誰かに、誰かであるあなたに。
 ひび割れた地面に足を取られる。強く体を打ち付ける。止まることへの恐怖が、立ち上がることへの恐怖に打ち勝つ。痛みを感じる足を引きずりながら、震える体で立ち上がる。
 手のひらをぬらすものが、赤いのか赤くないのかも考えられない。ただ目指すことだけを。ただ辿り着くことだけを。
 そこにいるのは、あなたかもしれない。
 あなたとあなたの望む誰かや何かかもしれない。
 あなたはいないかもしれない。
 私はあなたに会いに行く。
 遠くで誰かの悲鳴が聞こえる。誰かの嗚咽が聞こえる。あなたの恐怖が聞こえる。あなたの渇望が聞こえる。私の葛藤が聞こえる。
 私たちはあなたに会いに行く。
 届かない手をそれでも伸ばして、ただがむしゃらに追いかけた。
 まだだ。
 まだ世界は終わらない。
 私の手は、まだどこにも届いていない。
 あるいはその手を、望まない誰かが不意に握りしめるかもしれない。無惨にも拒まれるかもしれない。どこにも届かずに空虚だけをつかみ取るのかもしれない。
 それでも私は、あなたを求めて走り続ける。
 どこまでも。
 どこまでも。
 世界が終わるその一瞬まで。

 それが私の最後。
 私というあなたの最後――あるいは誰かの最後。


 そう、私は。
 あるいは私たちは。


 世界の終わりに会いに行く。


 それこそが、あなたの最後。




 6.refrain ―― Once upon a time

「それで?」
 あなたが呆れたような興味がないような声を出した。私は様々な最後をあなたに語る。あなたはそれをただ黙って聞いていた。余計な言葉は挟まなかったし、表情もあまり変えなかった。
 私が語り終わると、あなたは私に微笑んだ。
 あなたは誰と?と私があなたに聞く。あなたは首をかしげた。そして何度かまばたきをして私を見つめた。その顔は少しあなたを幼く見せた。
「それを聞くの?僕に?」
 あなたは頷く私を見て笑った。
「どうしよう、これはどう答えるべきかな」
 あなたは笑いながら、楽しそうに考えていた。私はあなたの言葉をじっと待った。静かに時間だけがたち、秒針の音がその間隔をゆるめていた。
「あのね、世界は終わったかもしれないし、終わるかもしれない。その一瞬一瞬で、確かに終わりを迎えながら、再び始まっているのかもしれない」
 あなたは静かに語り始めた。その声は甘い恋の詩を歌い上げるようであったし、静謐な神話を語り継ぐようでもあった。また、子供が眠れるように優しく語りかけるようでもあった。
「だから僕は、すべての瞬間に、すべての人に――僕がそのとき出会いうるすべての誰かに会いたいと思うし、僕がその瞬間すべてに感じ取る自分自身をすべて見つめ尽くしたいと思うよ。そして思っていたよ」
 あなたが私の頬に触れた。
 それは叶うのだろうかと私が聞いた。あなたは叶ったよと笑った。
「世界が終わった瞬間、あるいは世界が終わるその一瞬、崩壊するその輪郭の狭間を漂い、僕の意識はありとあらゆるものを見るだろう。たとえ物理的に孤独であったとしても、この目から光が失われていたとしても。だってそうだろう?」
 私をからかうようにあなたが首をかしげて笑う。
「世界が滅ぶその瞬間、世界はすべて等しく一つの滅びに融け合うのだから」
 この終わり続ける世界の中で。
 終わりから取り残されたこの小さな部屋の中で。
 それは今であり過去であり未来であり、すべての時間に通じているどこかの果てでもある。永遠と無限がこの小さな部屋に満ちて、私たちの間を途方もない孤独で埋め尽くす。
 この部屋は世界をもした箱庭になる。
 入り口も出口もない、ただ漂うだけの意識を閉じこめる。そのための檻。
 その中で、あなたは微笑み続けている。

 それが、あなたの最後。

 秒針の音が、ゆっくりと時間という世界を刻んでいた。あなたの手は私の頬に置かれたままで、私はあなたを見つめたままでいた。
 私はあなたの微笑みを思い出す。いつも変わらず私に向けられていた微笑み。
 繰り返される他愛もない話を繰り返す微笑み。
 いつかの未来の話を、――昔々で語られるいつかの日の話を、あなたは今も微笑みながら続ける。
「でもね、僕は君が一番そばにいたことを幸福に思うよ」
 私はあなたの言葉に静かに頷いた。
 あなたはそれを満足そうに見つめている。
「君は?」
 私は私の頬を覆うあなたの手に、私の手を重ねながら目を閉じた。秒針の音。私の鼓動。耳には届かないあなたの鼓動。そして多くの人々の鼓動。誰かであり誰でもない誰かの鼓動。
 私は笑った。
 あまたの最後に思いをはせながら、用意していた私の想いをあなたに伝える。

 それが、私たちの最後。 




「With whom do you want to live if the world will end tomorrow?」


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2005.6.4. 原稿用紙37枚