5、そして朝
目が覚めると、眩しい光がレイにそそいでいた。
肌触りのいい上掛けがレイを包んでいる。まだ使い古した様子はなく、肌に馴染む感覚は薄い。
レイは起き上がって、自分の腕に傷がないことを確認する。ずいぶんと細い、弱々しい腕だった。レイはほっとする。これは十歳になる前の自分だ。
寝台から降りて、その場で軽く飛んでみる。右足が軽い。当たり前だ、まだ事故を起こす前なのだから。
この日、レイはナナや他の友人たちと遊んでいるとき、つい調子に乗りすぎて、通りで車に轢かれる。その怪我のせいで、レイは右足に一生残る障害を負うことになり、そして徴兵から逃れてナナの傍にいられることになった。
だが、事故は起こさない。
レイは固い決意を抱いて窓の外を見つめた。そこには青く澄んだ空が広がり、やがて祖父がくれたばかりの真新しい目覚まし時計がけたたましい音を立てて鳴る。
それから、いくつもの季節がめぐり、夏とともにサーカスがやってくる。
熱をはらんだ風が十八歳のレイをなでる。色鮮やかなチラシが煉瓦色の通りを舞った。
「レイ!」
後ろからナナの声がした。振り返ると白いスカートの裾が風に巻かれてはためくのが見えた。
彼女の後ろに真っ赤に染まる太陽が見えて、レイは目を細める。
「サーカス、もう来てるの。見に行かない?」
「もう? どこに?」
レイが聞き返すと、ナナが彼の手を取って踵を返す。ナナの手に引かれて、夕日の中を街外れへ向かって走り抜ける。
二人の足音が住み慣れた街に響いて消える。
あれから、事故を起こさずに過ごしたあの日から、何度もこの足で街中を走った。いつか来る未来のために。いつかナナを守るその日のために。
そんなレイを、レイは走るのが好きなのねと、ナナが楽しそうに笑ってみていた。
「街外れにテントを張っていたの。聞いたら、住むためのものだって」
レイの前を走りながらナナがいつものように笑って話し出す。
さらさらと風に広がる髪を綺麗だと思った。握った手に汗がにじんで、けれど、どちらも手を離さなかった。
街外れはいつもと違ったにぎわいを見せていた。
物珍しげに集まった街の住民も、その中で忙しなく動くサーカスの団員も、派手な衣装がはみ出た地味な箱も、熊や虎が落ち着かずうろうろしている檻も、かつてと同じ姿でそこに存在していた。
懐かしいな、とレイは胸の内で呟く。
「レイ、見て。あそこ、私たちぐらいの人がいる」
ナナが指さした先には、楽しげに虎に餌をあげているヒューの姿があった。
目を細めて眺めていると、不意に彼と目が合う。
「あ」
声を上げたのはナナだった。彼は少しの間、二人を見つめ、それから静かに笑ったようだった。
彼が虎に別れを告げ、二人のもとまでやってくる。
「こんにちは」
と、軍服に身を包んでたりはせず、どこにでもいるような格好で、やはりどこにでもいそうな濃い茶色の髪と瞳をしたヒューが、十八歳のレイとナナに笑いかける。
親しげな様子に、前は随分途惑ったっけ、とレイは思う。
「あ、こ、こんにちは」
慌てたようにナナが頭を下げた。
レイの脳裏を凄惨な未来がよぎる。三人で笑いあった懐かしい日々がよぎる。泣きそうになるのを堪えながら、彼は頭を下げることしかできなかった。
そんなレイには気付かず、ヒューが穏やかに口を開く。
「この街の人だよね。俺はヒュー、サーカスでピエロと調教師見習いをしてる」
「あ、ナナです」
ぱっと顔を赤くしながら、ナナが慌てたように差し伸べられた彼の手を握る。
ふ、とヒューの表情が緩む。
「かわいい名前だ、似合ってる」
「え、あ、……ありがとうごさいます」
ますます赤くなるナナの横顔を見ながら、レイは様々な感情を押し殺していた。それは複雑に絡み合い、彼自身にも今自分がどんな気持ちかわからなくさせる。
そんな感情を抑えながら、レイはヒューの手を握った。
眩しい太陽が、誇らしげに輝いている。
公演がないテントが静かにその光を受け、暗く大きな影を作っている。十八歳のレイとナナはそこにいた。
「ねえ、会ってくれるかしら」
「会ってくれるよ」
不安そうなナナに、レイは苦笑で答える。初めて……まだ繰り返すことも知らずナナが死ぬことも知らなかった、本当にヒューと初めてあったときは、レイもナナと同じように不安そうな顔をしていた。あの時は、まさかあんなに解り合えるようになるとは思いもしなかった。
サーカスが来て二日が経った。
昨日の公演の興奮がまだ冷めていないらしいナナは、レイと会うなり行きましょう、と声を張り上げた。レイは苦笑しながらも頷いて、二人手をつないで街外れへ続く道を走った。
いつの間にか、ナナに合わせて走るコツを彼は見つけていた。
「でも、忙しいんじゃない……?」
ナナがおろおろと周囲を見回した。今にも帰りましょうと言い出しそうだ。
「行きたいって言ったのはナナじゃないか。大丈夫だって」
レイは苦笑をくずさず、ナナの肩に手を置いて彼女をなだめた。
それでも、まだ不安そうに口を開こうとするナナに、今度は苦笑ではなく笑いかける。
「それに、もし彼が忙しそうなら、平気な時間を聞いてまた来ればいいじゃないか」
そんなことをする必要がないことも、レイはすでに知っている。
もうすぐだ、と胸の中で呟く。何度も繰り返してきた日々。その始まり。
背後で誰かが草むらを歩く音がして、そして声がする。
「――あれ。……ナナさんと、レイ君?」
ほら。
レイは彼の胸に安堵と、そしてわずかな落胆が生まれる。例えば、ここでヒューに会えなければ、ヒューとナナが惹かれ合わなければ、ヒューが砂時計を渡さなければ、そうすれば違う未来が来たのかもしれないと、そう思ったことがないとは言えない。
そして今も。
「どうしたんだい、こんなところで」
けれど、それでも、彼はここへ来たし、三人は出会ってしまったし、彼とナナは惹かれ合ってしまった。それは、どうしようもないことだった。
どうしようもないのだ。どんなに考えても、サーカスは来たのだから。
「ええと、あなたに会いたくて」
レイはヒューをまっすぐ見つめて言う。
彼はそんなレイを、驚いたように見つめている。レイは苦笑する。
「いや、俺じゃなくて、ナナが」
「――ちょっ、ちょっと、レイ!」
レイの口から飛び出した言葉に、ナナが真っ赤になって慌てる。その様子がおかしくて、レイはくすくすと笑い出した。
「だってナナが言ったんじゃないか、会いたいって」
「わ、私は、サーカスの所に行きたいって言ったのよ!」
ますますナナの顔が赤くなる。
「同じ事じゃないか」
面白がって言い返すと、隣に来ていたヒューの笑う気配がする。彼は笑っていた、とても幸せそうに。
「……ヒューさん?」
火照った頬に手を添えながら、ナナが彼の名を呼んだ。
「仲が良いんだね、二人とも」
「え、そ、そんなことは……私とレイは幼なじみだから」
「うん。それはこの前聞いた。ただ、ほら、俺にはそういう昔からの友達いないから……だから余計、仲良さそうに見えるのかな」
ヒューが少し寂しそうな声で呟いた。
ナナが息を飲む。
一瞬、彼らの周りを静けさが包む。草が風に揺れてさわさわと音を響かせていた。
「……なら、私たちがそういう友達になっちゃ駄目かしら」
穏やかな静寂を裂いて、ナナの声がする。
「ずっと前から一緒にいたみたいな、友達に……なったら駄目かしら」
「……ナナさん」
ナナがまっすぐにヒューを見上げている。
昔から変わらない、きれいなナナの眼。その視線の先にいたいと思ったこともあったけれど。
「だとしたら、さん付けはおかしいと思うよ。そういう友達はお互い呼び捨て、かな」
レイが笑って言った。
その言葉にナナも笑った。
そして照れたように、ヒューが笑った。
ヒューがいなければ、ナナは死ななかったんじゃないかと思ったことはある。出会わなければ、友達にならなければ、何度も思いながら、その選択をすることは出来なかった。
「よろしく、ヒュー」
レイの手が彼の肩を叩く。
彼の笑顔を見て、レイは本当に心から安堵する。
失わずにすんだと。
そしてとても短く鮮やかな時が流れて。
街外れ。レイはヒューと二人で夏の風を受けている。
長い沈黙が降りる。遠くから楽しそうな笑い声が聞こえる。鳥の鳴き声が聞こえる。さわさわと草が揺れる音が聞こえる。
けれど二人のいる世界は静かだった。夕日がゆっくりと水平線に消えるのを、レイは見つめていた。何度見ても色褪せることのない夕日が鮮やかなまま沈んでいく。最後の一閃まで、強い輝きは絶えることがない。
その時、空気に溶け込むような声がした。
「俺はナナが好きだ」
夕日を見つめながら、ヒューがそう呟いた。
レイはどういう表情をしたらいいかわからず、ただ彼の顔を見つめていた。
「……知ってる」
「けど、俺はサーカスから離れられない」
「それも、知ってる」
そう、彼は知っている。
ヒューは行ってしまう。そうしてナナだけが残される。
苦い感情がレイの胸を埋めた。そしてレイと同じような表情をしたヒューが、ゆっくりと口を開いた。
「ずっと、聞きたかった。レイはナナのことをどう思ってるんだ?」
レイはヒューを見つめる。
風が二人の間を抜ける。いつかも二人の間を通り過ぎた風が。
深く息を吸って、覚悟を決める。
なくせないものがあるということ。伝えたい言葉があるということ。何かを言おうとする前に、レイの口から言葉が出ていた。
「……俺はナナが好きだ」
普段と変わらない声で彼は告げた。
ヒューの表情は変わらなかった。
そして小さな声でそうか、と呟く。
「ナナは知っているのか?」
「いや、たぶん気付いてないと思う」
さわさわと風が草を揺らす。鳥が鳴く。遠くで誰かを呼ぶ声がする。
「……レイ、俺は」
張りつめた声がした。
レイは苦笑して、ヒューと目を合わせる。
「けど、ナナが好きなのはお前だろ」
だから、ナナの傍にいてやれよ、と言いかけて口を噤んだ。
レイは笑いかける。その笑顔に嘘はない。
「……だから、ナナを幸せにしろよ」
「ああ、必ず」
泣きそうな顔をしてヒューが言う。
レイはそれを微笑みながら聞いていた。
それからの日々は、穏やかに過ぎた。
毎日のようにナナはヒューに会いに行き、レイも時間を見つけては二人を訪ねに行った。
三人で過ごすようになって一ヶ月も過ぎると、レイの両親があんたたちは仲が良すぎるくらいだねえとため息をつき、レイの友人がナナを取られて平気なのかよと鼻息も荒く捲し立てるようになった。
レイがなだめると彼は呆れたように言った。
「だって、行っちまうんだろ?」
ヒューはサーカスのピエロだから。けれどレイは首を左右に振る。
「……行かないよ。ヒューは行かない」
「あいつがそう言ったのか?」
「いや。でも、わかる」
レイは声が掠れていくのを感じる。
怪訝な顔をした友人から目をそらし、赤銅色の煉瓦道を見つめた。広場と、サーカスのいる街外れへと続く道。
「ヒューがこの街を、ナナのそばを離れたら駄目なんだ。それじゃあ駄目なんだ。だから、あいつは行かない。行かせない」
レイのこわばった横顔を友人が不安そうに見ていた。痛々しいものを見るように見つめ、何か言いたそうに口を開いたとき、彼は安堵したように笑った。
「あっ、ナナ」
友人の視線を追って、レイは振り向く。
「レイ、見つけた!」
時刻は夕方。中央広場に繋がる一本の通りから、白いスカートをはためかせてナナが走って来た。レイは目を細めてその姿を見る。
「ヒューが呼んでたんだけど……今、平気?」
「ああ。ヒューが何だって?」
レイの前で止まり、呼吸を整えたナナが顔を上げる。
「なんだか大事な話みたいなの。行きましょう」
レイはナナに頷いて、友人に別れを告げる。
夕日の中、サーカスが来たあの日のように、二人は並んで街外れへ向かった。二人の手は、もう繋がれていない。
レイは空の手を握りしめて、けれど小さく笑った。
薄暗い街外れ。空を見上げれば、気の早い星が瞬き始めている。いつだったか並んで座った場所に、ヒューが立っていた。
「ヒュー」
ナナが彼の名を呼ぶ。
夕日の沈んだ海を見ていた彼が、声に気づいてゆっくりと振り返った。
「ああ、来たのか」
「それで、話って?」
何が話されるかをレイは知っている。だからナナにも聞かなかった。街外れまで来る間、二人は黙って通い慣れた道を歩いた。
「……今日、団長が正式に公演の最終日を決めた」
重い口を開いて、ヒューが言った。隣でナナの息を飲む気配がする。
「来週の週末が最後だ。その週明けに……サーカスはここを出ていく」
「お前はどうするんだ」
レイが言った。硬い声だと自分でも思った。
苦しげに彼は頭を左右に振る。
「……団長は、好きにしろと言ってくれてる」
風が音もなく三人の間をすり抜けて、じっとりとした空気を連れてくる。レイは手を握りしめた。掌に爪が食い込んで、にぶい痛みを訴える。
「残れよ」
長い沈黙を破り、レイが言った。この一言が無駄なことは、以前、何度目かの繰り返しの中の一つで、試しているから知っている。
知っているけれど、言わずにはいられなかった。この一言で全てが変わるなら。変わらないことを知っていても願わずにはいられなかった。
「レイ、そんな言い方……ヒューには夢があるのよ。レイにならわかるでしょう?」
「だったら、ナナはヒューが行ってもいいって言うのか?」
レイの一言にナナが詰まる。ヒューが心配そうに二人を見比べる。
また沈黙が訪れる。
「……私は、ヒューが好きよ」
ぽつりとナナが言った。
「動物といるヒューが好き」
ナナの言葉を聞いて、ヒューがはっとしたように目を見開いた。そして覚悟を決めるように静かに目を閉じ、
「……考える時間をくれるか。決めたら二人に一番に伝えるから」
静かにそう言った。
ヒューは行く。レイはそれを知っている。
「見て」
綺麗な空、とナナが指さした。夕暮れの余韻をかすかに残した空は、濃い紫の揺らぎを引き、やがて漆黒の夜にとける。ぱらぱらと散った星が、夏の終りの風に瞬いた。
何度も見た星空を、レイは見上げる。
きっとこれで最後になる。焼きつけるように、ただ静かに星を見ていた。
晴れ上がった空は、すでに秋の色を持ち始めていた。来たときと同じように多くの人に囲まれながら、サーカスはここを去る準備を着々と進めていた。
本当に行ってしまうんだね、どこからかそんな声が聞こえる。
ナナはまっすぐに顔を上げて、サーカスの団員たちが片付けをする様子を見つめていた。特別、ヒューを探しているようには見えない。
レイが目を瞑ると、今までの記憶が鮮やかに甦る。ナナを失ったときの喪失感。何度繰り返しても薄れることのなかった絶望。枯れない涙。いつか失うとわかっていても眩しかったナナの笑顔。さらさらと音を立てる砂時計。動物の世話をするヒュー。父親の背中、母親の寂しそうな声、クレーバー時計店、友人、祖父の時計、ナナの白い手、クッキー、広場、笑顔、ひるがえったスカートの裾、繋いだ手――
「あ」
と、ナナが声を上げる。一気に現実に戻されて目を開くと、案の定ヒューの姿が見えた。どこにでもいるような格好をして、地面にしゃがみ込み何かを必死に梱包している。レイとナナはしばらくヒューを見つめていた。
ヒューが立ち上がる。周囲を見回す彼の視線がナナを捉える。二人の間の時間が一瞬止り、彼は近くにいた団員に何かを告げ、迷いのない足取りで二人のもとに、いや、ナナのもとにやってくる。
「……これ」
すぐ近くまで来ると、出し抜けに彼は何かを差し出した。真昼の日射しが何かに反射され、レイの目を射抜く。
砂時計だった。
心臓の鼓動が速くなる。
「きれい……」
「それ、俺のお守り。団長に拾われたとき持ってたらしい」
ナナの手の中で、砂時計がさらさらと音を立てた。
うっとりと見つめていたナナの手を、ヒューの手が包む。弾かれたようにナナが顔を上げる。
「そんな大切なもの、もらえないわ」
「ナナに持っててもらいたいんだ」
その一言にナナが押し黙った。レイは二人の手の中の砂時計をじっと見ている。うるさいくらいに心臓が激しく鳴り、二人の声もどこか遠くから聞こえてくるようだ。
ナナの視線が砂時計に落ちた。
遠くからヒューを呼ぶ声と、馬鹿!とそれをたしなめる声がする。
時間は、もう、残されていない。
するりとヒューの手が離れていく。ナナの手の中に砂時計が残される。
「――ナナ!」
レイが叫ぶ。ナナとヒューが驚いてレイの方を振り向く。砂時計から意識がそれたその瞬間、レイの手がそれを奪い去っていた。
「レイ!?」
二人の声が重なる。
驚いて動けない彼らに背を向け、レイは走り出す。右足が地面を踏みしめ、そして蹴る。辺りが騒然とする。
このまま、サーカスが行ってしまうまで逃げ続ければいい。レイはそう考えていた。そうすれば砂時計はナナのものにならない。うまくすれば、ヒューはこのままナナの傍にいてくれる。
「レイ! 待てよ!」
ヒューが追いかけてきている。振り向く余裕はない。街外れから、一気に街の中へ。通りから通りを抜け、裏道へ潜り込み低い塀を跳び越える。慣れ親しんだ街だ。道なら全部覚えている。
「レイ!」
ヒューの声がずいぶん遠く聞こえた。かなり引き離したらしい。レイの体力もなくなってきた。どこかで休まないとばててしまう。レイは通りに飛び出した。車が迫っているのは知っていた。ギリギリで抜けられるはずだった。
耳にナナの声が飛び込む。
「―――レイッ!!」
右足。
動くはずの。動かないはずの。
意識した瞬間には遅かった。さっきまで動いていたはずの右脚が硬直し、引きずった瞬間にバランスを崩す。堪えきれず膝が地面に落ちる。痛み。迫りくる車輪の振動。
振り返ると、必死に追いかけてきたのだろう、驚愕に固まっているナナの姿が見えた。白いスカートの裾が風に揺れる。
そういえば、幼いころの事故でもこうしてナナが目の前にいたっけと思い出す。
懐かしさに、レイは笑った。
朝の日射しが、持ち主のいない部屋を燦々と照らしている。寝台には使い込んだ上掛けが綺麗にたたまれ置かれている。カーテンは開けられたままで、部屋には眩しい光が満ちていた。
祈りたくなるくらい、うつくしい朝だった。
「レイ」
ナナが少し寂しげな笑顔で、今はいない青年の名を呼ぶ。その隣には似たような表情のヒューが寄り添っている。
「私たち、結婚するの。長かった戦争も終ってヒューも帰ってきたし、明日には小父様やお父さんも帰ってくるのよ。だから……」
言葉は続かず、ナナの顔から笑顔が消える。
「あなたがいれば、もっと心から喜べるのにね」
「ナナ……」
俯いてしまったナナの肩に、そっとヒューの手が回る。
「大丈夫よ、ヒュー。……いつまでも哀しんでいるわけにもいかないもの」
顔を上げてナナが笑う。
その時、視界の端で何かが光った。
「……あら、この砂時計、小母様が置いたのかしら」
あの日、砂時計を奪ったレイは車に轢かれて死んでしまった。大事そうに、砂時計を守りながら。
そしてヒューは、ナナとともにサーカスを見送った。
ナナと共に生きる自分に過去はいらない、ヒューはそう言い、砂時計をレイの母に預けた。彼が最後に守ったものだから、と。
「きっと、何か意味があったのよ。レイはあんなこと、意地悪でするような人じゃないもの」
「ああ。そう何度も言われなくても、ちゃんとわかってるよ」
ヒューが苦笑する。
だって、とナナが少しすねる。
そんな二人の様子を、静かに二十一歳のレイが見つめていた。とても幸せそうに笑いながら、二人の横に立っていた。いつか、三人で語り合ったときのように、笑い合ったときのように。
「ナナ」
レイが静かな声でナナを呼ぶ。
その声は穏やかな日射しの中、誰の耳にも届かずに消える。
だが、ナナが拗ねていた表情を消して部屋を見回した。
「……レイ?」
その一言にヒューがきょとんとし、レイが目を見開いた。
「幻聴かしら……」
「おいおい、幽霊でもいるって?」
残念そうにしているナナに、ヒューが慌てて言う。
「あら、レイの幽霊なら素敵じゃない」
「……まあ、それはそうだけど」
楽しげな二人の会話が、レイの部屋に満ちる。レイはゆっくりと微笑んで、声には出さずに別れの言葉を告げる。
日射しが射し込む窓に背中を向けて、レイはドアへ向かう。開けっ放しだった部屋の入り口で立ち止まる。
ふ、とレイの表情から笑みが消え、彼は穏やかな空気に満たされた部屋を振り返った。幸せそうに笑う二人の姿を見つめる。
何か言いたげに口を開いたが、彼自身も何を言いたいのかよくわからず、ただ苦笑をもらし前を向いて歩き出した。彼はもう振り返らなかった。
明るい日射しに照らされる小さな部屋は、静かにその光を甘受して佇み、きらきらと、まるで新しい未来を喜ぶように微笑んでいた。
その片隅で、砂時計が祝福するように輝いた。
6、深淵の底にて、終焉の灯
世界は暗い。
全くの闇に包まれた空間に男と少女がいた。二人を照らす灯は、そのそばにある古びた街灯だけ。街灯の足元のわずかな空間だけが、小さな島のようにぽっかりと闇の中に浮かんでいた。
「行ったか」
男が少女に向かって言った。黒い服に身を包んで、周囲の暗闇に今にも溶け込んでいくようだった。二人の間には誰も座っていない洒落た細工の施された椅子が、ぽつんと置かれていた。
「ええ」
少女が頷いて返した。
「で、どうだった」
「欠片よ。砂の中にまじっていた」
少女が掌を広げて男に差し出す。そこにはきらきらと光る小さな砂があった。
「こんなに細かくなってたら、全部集めるまでどれだけかかるんだよ……」
男が小さな砂を受け取りながらぼやいた。
「でも、ここには時間なんてないのよ」
「……そりゃそうだけどな」
受け取った砂を男は宙に投げる。すると砂は放物線を描かず、宙に留まったままきらきらと光り続けた。やがてそこにぼんやりとした何かの輪郭が重なる。
それは時計だった。男の掌におさまる程度の、大きくも小さくもない懐中時計。
「ったく、大変なもん任せられたな。時間軸の外で動く歪んだ時計か。あんな小さな欠片で、何度もループを起こさせたんだ。砕かれたこれが元に戻ったらどうなるんだか」
「でも、あちこちに散らばってるよりはマシじゃないかな」
「そうだけどよ」
男がため息をつくと、浮かんでいた時計の輪郭が消える。
後には静かな闇と沈黙だけが残された。
闇に支配された世界で、時間という感覚は失われる。
永遠のような一瞬、一瞬のような永遠。
少女が再び、空の椅子を見つめた。
「彼は……運命にあらがって、その結果命をなくしてしまったけれど、幸せだったのかしら」
少女は椅子を見ている。そして、さっきまでそこにいた一人の青年を見ている。ぼろぼろの服を着て、それでも彼女を助けられたと笑っていた、十八歳の少年を見ている。その中にいる二十一歳の青年を見ている。
「さあな」
無関心そうに男が言った。
少女がむっとしたように男を見ると、男は闇を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「けど、後悔はしてないんじゃねぇの」
男の言葉は静かな余韻を残して、二人の間に落ちた。
「……そうね」
静かに少女が応えて、そして微笑む。
また長くて短い沈黙が流れる。
「行くか」
男が思い出したように言うと、同じく思い出したように少女が頷く。
二人は並んで暗闇へと歩き出し、そして溶けるように消えていった。
後には古びた街灯と、空の椅子だけが残されるが、やがて街灯の明りは消え世界は闇に閉ざされる。
ありがとう、と青年の声が闇に静かに響いて消えた。
the end,
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2005.09.27. 原稿用紙102枚