U 蝶の夢 ---- The butterfly's whispers.
須藤瑛が電車から降りると、冷たい風が体を包んで離れていった。昨日よりずいぶんマシだと感じるのは、ポケットに入っている使い捨てカイロとマフラーのおかげだろう。
いつものように改札を定期でくぐると、吐いた息が一瞬だけ白く残った。
もう冬なのかと思うと、冷えた空気が急に澄んだもののように感じられる。日射しもずいぶん冬らしくなってきた。
(寒いのはいやだけど、こういうのは好きだな)
温かいカイロに触れながら、もう一度ゆっくり息を吐いた。先刻よりも長く白い息が残って満足する。
周りには瑛より急ぎ足の紺色の制服がちらほら見られる。同じ電車に乗ってきた清陵の生徒だ。
邪魔にならない隅の方を歩いて辺りを見回す。
(さすがに将真はいないか……)
二人ほどの清陵生に追い越されたところで、周囲と同じように早足で歩き出した。
外泊はあまり褒められたことではないと思うが、一緒に登校できるのは結構楽しかったりしたのだ。
(同じ路線の人って、なんでかみんな朝練とかあるんだよなあ)
帰宅部の瑛とでは時間が合わない。たまの雨の日に同じ電車に乗ることがあっても、そういうときは清陵生自体が増えるのでなかなか仲の良い級友と会えないものだったりする。
一人の登校なんていつものことなのに、妙に落ち着かなかった。目立たないよう周りにいる清陵生の顔を確認して、知り合いがいないことに落胆する。
小さく溜息をつくと、不意に後ろを振り返った。
「――……?」
将真、と名前を呼びそうになる。
なぜだか後ろに将真がいる気がしたから。
いないに決まっているのに。
奇妙な違和感を感じて、気がつけば足が止まっていた。間違い探しの絵を見ているような感覚。改札の向こうのホームに電車が止まっていて、吐き出されるように人が改札から出てくる。そのうちの何人かは瑛と同じ紺色の制服を着た清陵生だ。始業ぎりぎりになればもっと多くの生徒が降りてくるだろう。どこもおかしいところはない。
後ろから来た清陵生が迷惑そうに瑛を見て、その脇を通り抜けていく。
軽く肩が当たって我に返った。
慌てて歩き出す。
「……あー、さむい」
決まり悪くて、そう呟きながら少しだけ足を速めた。
*
教室を出て学食へ行く将真を横目で見ながら、瑛は弁当を取り出した。
「お。須藤、弁当じゃん」
瑛の前の席に座りながら、クラスメイトの西尾が楽しそうに声をかけてきた。
「今日のおかずは?」
「なに、須藤弁当なの?」
近くにいた男子が瑛の周りに集まる。料理好きの母親が時々持たせてくれる弁当は、クラスメイトに人気だ。
「あ、コロッケうまそうだなあ」
「これ冷凍とかじゃないんだよな。すげー」
「昨日の残りだよ」
瑛が中学に進学するのを期に、両親は離婚した。それ以来、母親は女手一つで家計も家事も支えている。趣味の料理にも少ししか時間を割けないほどに彼女は忙しい。
そんな合間を縫って手渡してくれる弁当は本当に美味しい。
「なあ、このコロッケもらえないよな……?」
「あ。何言ってんだよ、俺だって欲しいんだよ」
「俺も食いたいなあ……」
三方向からほぼ同時に言われて瑛は苦笑する。
「あげたら俺が食べる分なくなっちゃうじゃん」
「だよなあ……」
それぞれ顔を見合わせてクラスメイトが呟いた。本気で欲しかったらしい。
ふと、なにかを思いついたらしい西尾が、手に持っていた袋を瑛の前に差し出した。
「半分でいいからさ、これと交換してくれないか?」
見ると結構な大きさの蒸しパンだった。
横から西尾ずりぃという叫び声が上がった。
「……全然量が違うけど、西尾それで平気なのか?」
「全然平気。ていうか、ちょっと買いすぎたかなあとか思ってて」
うーん、と唸りながら蒸しパンとコロッケを見比べる。
西尾に視線も戻すと、期待の目がこっちを見ていた。
(確かこの前おかずをあげたのは西尾じゃなかったし……)
「わかったよ。半分な」
「やった! 須藤、ごちになりますっ」
頭を下げながら蒸しパンを瑛に向かって掲げる。その姿がおかしくて笑いながら半分に切ったコロッケを差し出した。隣にいた二人からは羨ましげな声が聞こえてくる。
二人に見せびらかしながら西尾はコロッケを大げさな動作で口に入れる。その顔は本当に美味しそうだ。作った本人ではないが、こういう表情をされるとどうにもくすぐったい。
お前の母さん、普通に店開けるってと西尾が笑いながら言うと、心底羨ましそうに二人がうめいた。
「瑛」
残念そうな二人にフォローを入れようとしたとき、後ろから将真に呼ばれた。げっ、と目の前の三人の誰かが呟く。見れば顔が引きつっていた。
いくらなんでも声をかけられたぐらいでこんな表情をするわけがないと、眉を寄せながら振り返れば、案の定睨みつけるような顔の将真が立っていた。
「……あのな、将真」
お前が嫌われるだけだからそんな顔で声をかけるなと、どう伝えたらいいか。とにかく瑛が口を開いたとき、将真の視線はクラスメイトに向けられていた。
「じゃ、コロッケありがとな、須藤」
そう言うやいなや、そそくさと西尾は瑛の席を離れていく。残りの二人もすぐそれに続いた。
瑛の眉間に険しいしわが刻まれる。
見上げれば、将真は離れていったクラスメイトをまだ睨んでいた。
「……お前な」
ため息とともに言うと、やっと彼の視線が瑛に戻る。
「それはこっちのセリフだ」
「は?」
「お袋さんの作った弁当なんだろ? 大人しくたかられてんじゃねえよ」
苦々しく吐き捨てられて、険しく作っていた表情が剥がれ落ちる。
ぽかんとしている間に、彼は手近な藤岡の椅子を動かしてそこにどかっと座る。昼休みなら藤岡がいない、そのことを踏まえた上で彼女の椅子を使ってるんだろう。
「――ったく、あいつら、毎回毎回たかりやがって」
「いやでも、ほとんど物々交換だし」
今回みたいに量的に得することもある。
「だいたいその毎回毎回、へらへら笑ってあげるお前もお前だ」
じろりと睨まれる。
その目は先刻、クラスメイトを睨んだ目と同じようで、全然違う。残念なことに、その違いを理解してくれるクラスメイトはそういない。
(……これでまた、須藤は東郷に脅されてるって噂が立つかなあ)
前にもそういう噂が流れて、あげく教師にまで伝わって大事になりかけたことがある。あの時ばかりは瑛も本気で激昂しそうだった。
何よりも、そんなくだらない噂を否定しない彼に。
「……お前ってそういうやつだよなあ」
「はあ?」
人の心配はしておいて、人に心配はされたくなくて、距離を取りたがって。
そのくせ。
「いや、こっちの話」
微笑む瑛に将真は怪訝そうに顔をしかめた。
だからこそ、誰よりも彼の友人であろうと思ったのだ。
「あのさ、ちょうどいいから相談に乗って欲しいんだけど」
「……何がちょうどいいんだよ」
「ま、それはそれこれはこれ」
あのな、と将真が呆れる。
「いや、来生のことなんだけどさ」
そう一言付け足すだけで、あっという間に真剣な表情になる。
それも一瞬で、彼はすぐに人の悪い揶揄の混じった笑みを作った。
「なんだ告白する気にでもなったか?」
「いや、まだしない。……と、思う」
将真が小さく感嘆して、詳しく話せと口元だけで笑いながら言う。
瑛は財布から取り出したチケットを見せる。
「あ? ……あー、これ確か来生が見たいとか言ってたやつか」
「今度誕生日なんだ」
「来生の? いつだ?」
とうとう将真の顔から軽薄な笑みが消えた。真剣そのものの表情に、何故だか妙に救われる。
「土曜。来週の」
「なるほどな。それで一緒に映画見て、帰りに告(ろうって算段か」
「……いやだから、まだするつもりはないけど」
将真の手からチケットを取ろうとすると、引き抜けなかった。
力を入れて引っ張っても、将真の指からいっこうに動かない。
「将真?」
「告ると約束したら返してやるよ」
にっ、と将真が笑う。
「何言って―――」
冗談かと思ったが、将真の目を見て言葉を失う。
彼は本気だった。
「そんな約束したって……映画見に行けなかったらどうすんだよ」
「そん時はそん時。俺が付き合ってやるよ」
こんな甘ったるい恋愛映画を男二人で見るのか。
「ふられたら」
「慰めてやるさ」
「……そういう雰囲気にならなかったら」
「次があるだろ」
なんとかチケットを取り返そうと思っても、彼の力は緩まない。これ以上やったらチケットが破れそうだ。
「――わかった、約束する。けど、できなくても俺のせいじゃないからな」
手を挙げお手上げのポーズを取って言った。
「よし。それでこそ男だ」
「なんだかなあ……」
返してもらったチケットを財布にしまう。
溜息(ためいき)をつきながら上を仰ぐと、時計が目に入った。あと五分もしたら予鈴が鳴る。
そういえば、昨日来生は昼休みにもう一度来ると言っていたが、昼休みに来生には会えなかった。あのあと二人は学食へ行ってしまったから、きっとその間に来たのだろう。
クラスも違う。部活も違う。委員も違う。選択授業も一緒にならない。普通に過ごしているだけでは、瑛と七瀬の接点は本当にないのだ。
(……どうやって渡そう、これ)
将真と約束してしまった以上、本当に渡さないといけない。
(渡すきっかけが欲しくて将真に言ったんだけど……)
それ以上の約束ができてしまった。
無意識に瑛の視線が教室の入り口へと向く。
(――――……あ)
ちょうどそこへ、いつものように髪を後ろでまとめ一房ずつ横に残して、昨日と同じようにシャツの上にベストだけ着た七瀬が顔を覗かせた。
目が合うと、ほっとしたように顔をほころばせる。
席から立って一歩彼女に近づいた。それだけで話すには充分な距離になる。あともう一歩分空いた二人の間。それがたぶん、今の二人の距離だろう。
後ろから、将真が席を立つ音がした。
「――……来生、どうかした?」
名字で呼ぶと、一瞬だけ表情が翳る。彼女が瑛のわずかな感情の揺れに気付くように、瑛もまた彼女の揺れを見逃さなかった。
困惑と、寂しさ。
彼女と違って、瑛はそのことについて触れはしない。
「昨日の胡蝶の夢のことが気になっちゃって。どうだった?」
「ああ……そのことか」
教室の隅に置かれたゴミ箱に一瞬だけ視線をやる。
ホームルームが終わってすぐに、くしゃくしゃに丸めそこに捨てた。
「そういや、あの紙って結局何だったんだ?」
今まで黙っていた将真が、瑛の机に座りながらそう言った。七瀬から聞くまで忘れていたらしい。瑛も極力思い出さないようにしていたけど。もしくはそんな瑛に気付いたから思い出しても黙っていたのかもしれない。
「なんか間違いだったんだって」
「間違い?」
七瀬の声に安堵が混じる。
「うん、別のヤツに回してもらうつもりだったらしいよ」
「伝言ゲームみたいにどっかから変わっちまったのか……なんか拍子抜けだな」
本当につまらなさそうに将真が溜息をついた。
拍子抜けって、と思ったが今は口に出さないでおく。
「でも良かったね。なんか変なイタズラとかじゃなくて」
「ホントに」
瑛がうなずくと、七瀬の視線が壁に掛かった時計を見る。もうすぐ予鈴が鳴るころだ。
そろそろ戻った方がいいんじゃないかと言いかけたとき、脇腹を将真の肘が小突いた。目が今だと訴えている。
ためらったのは、ほんの一瞬。
机の上に置かれたままだった財布を取って、その中から一枚のチケットを取り出した。彼女の顔が見えなくて俯いたまま、彼女と向き合う。華奢な足が見えた。
息を吸い込んで顔を上げれば、少しだけ不安そうに首を傾げている彼女の顔がある。
「あのさ、―――……もうすぐ、誕生日だったよな?」
そう言うと、驚いた顔をした。
「あ、うん。来週の土曜……」
「これ。前に見たいって言ってたろ。ちょっと早いけどプレゼント」
ぶっきらぼうな手つきでチケットを差し出す。
七瀬はまだ驚いた顔をしていた。
「……覚えててくれたんだ」
「う、うん」
じっと、細い手の中の紙を見つめる。きれいな写真がプリントされた、映画のチケット。
ゆっくりと彼女が笑う。
「ありがとう……――嬉しい」
その笑顔は、幼いころから変わらない笑顔で。
まっすぐに、純粋に、本当に心から嬉しそうに彼女は笑う。
いつからだったろう、自分に向けられる笑顔が眩しく感じるようになったのは。瑛は昔を振り返る。
そうたぶん、制服を着た彼女を一番最初に見たとき。
今まで当たり前だったことが変わってしまって、途惑っている間に彼女はどんどん大人っぽくなって。
気がつけば七瀬と呼ぶことができなくなっていた。
「おい」
小さな声とともに脇腹を突かれて、瑛は彼女に見とれていたことに気付く。
将真は睨むように瑛を見ていた。
胸の内で小さく溜息をつくことで、瑛は覚悟を決める。
七瀬が不思議そうに二人を見ていた。
「それでさ、その、来週の土曜空いてたら、一緒に――――……」
途中で言葉に詰まった。
瑛の言葉に驚いた七瀬が、照れたようにそして嬉しそうに笑うから。
最後まで言えなかった言葉を彼女は受け取って、はにかみながらそっとうなずいた。
*
瑛の母親は、インテリアコーディネーターの事務所で働いている。古い友人の事務所だと聞いた。つまりはコネなわけだが母親は優秀らしく、今日も元気に休日出勤で朝から出て行った。
「はー……」
特にすることもなく母親の本棚から小説を持って来て読んでみたが、まったく頭に入らない。一応、読んでいたページにしおりを挟んで、そのまま枕元へ放る。きっとあとで開いてもわけがわからないだろうな、と思う。
蛍光灯の光が眩しくて眼を閉じた。そろそろ眠くなってきた。
SFなら読みやすいだろうと思ったが、そういうわけでもないらしい。
「……寝よっかな」
ベッドで読んでいて良かった。布団の中に潜り込み、眼を閉じる。
瞼に浮かぶのは、あの日の七瀬の笑顔だ。
真正面から彼女の笑顔を見るのは本当に久しぶりだった。一時期は学校で話すことさえ避けていたのだから、それも仕方のないことだろう。
土曜日まで、もう一週間もない。
その日が来たら、彼女の十七回目の誕生日が来たら、その日を一緒に過ごせたら。
もう一度、ちゃんと彼女の目を見て、名前を呼べるだろうか。
それが当たり前になる日が来るだろうか。
瑛は、微笑む彼女の面影を見ながら、うつらうつらと夢と現実の間を行き来する。
あきらくん、と彼女の声が聞こえた気がした。
微睡みの中に響く声は遠い。
やさしげな彼女の声は、あまり遠くまで響かない。近くにいても、雑踏の中ではかき消されてしまうこともあった。
もっとはっきり聞きたくて瑛は耳を澄ます。
そこに飛び込んできたのは、容赦ない現実の音だった。
「――――……っ!」
枕元に置いた携帯から大音量で電子音が流れて、思わず飛び起きる。驚いた。
心臓が気持ち悪いぐらいに早く脈打っている。
容赦なく叩き付けられた現実のせいか、微睡みから転げ落ちた瑛の手は震えていた。そのことに自分でも驚いている間も、枕元の携帯はけたたましく鳴っている。
「あーもう、誰だよ! ……って、母さん?」
表示された名前は間違いなく母親のものだ。仕事中に電話してくるなんて、なにかよっぽどのことでもあったのだろうか。先刻とは違った意味で心臓の鼓動が早くなる。
「……もしもし、母さん?」
『遅い!』
何かあった? と瑛が聞く前に金切り声が耳をつんざく。
「お、遅いって……」
『何コール鳴らしたと思ってるの!』
思わず携帯を耳から遠ざける。今日は心臓に悪い日だ、と胸の内で呟いた。
「ごめんって。それで、なに?」
『今、家よね?』
あきらかに焦っている声で彼女が言う。
そうだけど、と瑛が返すと、携帯の向こうからほっと息を吐く様子が伝わってきた。
『悪いんだけど、書類持って来てもらえない? 私の部屋の机に置いてあるはずだから』
*
母親の働くオフィスを出ると、空が赤く染まり始めていた。
(最近、日が落ちるの早くなったよな……)
時計を見ればまだ夕方になったばかり。
「瑛……寂しくない?」
先刻聞いた母親の声がよみがえる。瑛から渡された書類を大事に抱えて、彼女は痛そうな顔でそう訊いた。
らしくないな、と思う。だからあえて、精一杯からかう笑みを作る。
「なに急に。再婚でもするの?」
「まさか!」
「俺には母さんがいるし、父さんともなんだかんだで二、三ヶ月に一度は会ってるし。第一、もっと小さい頃ならまだしも。……俺は、平気だよ」
なにかあったのだろうと思う。嬉しくないことが。だからせめて、優しい声で言えてるといい。彼の父親で、彼女の夫だった人は、とても優しい声をしていたから。
ゆっくりと瑛の言葉をかみ砕いて、彼女は静かに笑った。
瑛の記憶の中には、幸せそうに寄り添って笑う二人の姿が克明に残っている。幼いながらも、そんな二人の姿が嬉しくて、よく間に潜り込んだ。
思い出の懐かしさに、瑛の頬が緩む。
(――あれ?)
不意に頭をよぎったことがある。
同時に頭に浮かぶのは幼い頃の、微笑む両親の記憶。
(父さんと母さん、何で離婚したんだっけ?)
母親のオフィスを出てから何度か首を傾げながら、特に当てもなく道を歩く。
(やだなあ、ど忘れなんて。こんなこと、母さんにも聞けないし)
まあ、そのうち思い出すだろうと記憶を探ることを諦めたとき、ちょうど大通りへ続く路地が目に入った。人一人が通るのがやっとの細い路地。その先の通りは駅へ続く商店街で休みでもたくさんの人が行き交っている。
自然と路地へ足が向いた。まっすぐ帰る気分にならなかった。
高いビルに挟まれて普段からでも薄暗いそこは、日が傾き始めた今、いっそう暗く見える。
通りの喧噪が響いて、遠く聞こえる。
妙に静かだと感じた。
今までにも何度か通った道なのに居心地が悪い。自然と早足になっている。
短い路地を抜けた先の通りはいつものように人に溢れていた。日中は車の進入を禁止しているからだろうか、そんなに都会でもないのに、いったいどこからこれだけの人が集まってくるのか。
人混みの中に足を踏み入れようとしたとき、不意に何かが引っかかった。
家を出る直前に忘れ物をしたような気がするのと似た、小さな違和感。
暗い路地を振り返る。
そこにあるのは、影になった細い道だけ。
(……ああ、そうか)
影が濃いんだ、と瑛は声に出さず呟く。
そしてそのまま歩き出そうとして、また足が止まる。
表情が険しくなった。
数秒のためらいがあって、今度は勢いよく路地を振り返る。
(影が濃い(なんて、あるわけない)
確かに日は傾き始めたが、また夕暮れには早い。まして今は初冬。
目の錯覚だと、どんなに目をこらしても、路地の影は黒くそこに存在していた。
「――人が蝶の夢を見ているのか」
唐突に、聞き慣れない声が耳に飛び込んできた。
すぐ隣の店先に置かれたテレビ。本来ならゲームのデモを流しているはずの。
ザザ、と不快な音を立てて画面にノイズが走る。今まで映っていた3Dの画像にまぎれて、別の画像が映り始めた。
通りを歩く何人かが怪訝そうにその画面を見ている。
画面にノイズが走るたび鮮やかな何かが見える。
それは、極彩色の。
(……蝶?)
「――人が、蝶の夢を……」
テレビがさらに繰り返す。そこへ慌てて店員が走ってきた。テレビの裏側に回って、必死に回線を調整している。画面はいっこうに戻らない。
繰り返すノイズ。
そして、翅を広げる鮮やかな、蝶。
「それとも、」
それは一瞬だった。
一瞬、うるさかったノイズがおさまって、美しい蝶が映し出され、そして閃光のように声が瑛の鼓膜を射抜く。
「――蝶が君の夢を見ているのか(」
どくん、と心臓が大きく跳ねる。
その声の意味を理解したときにはすでに、画面はただの砂嵐になっていた。周囲を見回しても、街行く人は横目でテレビを見ていくだけ。
おそらく誰も瑛と同じものを見ていないし、誰も瑛と同じ声を聴いてはいない。
やがて画面は正常なゲームのデモに戻り、心底安心した様子の店員が店の中へ戻っていった。
「……今の――」
胡蝶の夢、と瑛の口が動く。掠れた声が力なく途絶えた。
偶然だろうか。
そんなわけないと思いながら、そうであって欲しいと望んだ。偶然、機械の故障でデモが混線したのかもしれない。胡蝶の夢をキャッチフレーズにしたゲームが発売されるのかもしれない。そういうゲームならありそうだ。
(それが、偶然?)
回されていなかった胡蝶の夢の紙切れを受け取った瑛の前で、胡蝶の夢を使ったゲームのデモが機械の故障で流れる。そんな偶然が。
あるわけない。
ぐっと、右手がコートの左胸の辺りを握りしめていた。力の入れすぎで白くなった手は冷たい。その冷たさが心臓に伝わって全身を冷やしていくようだ。
体中から熱が奪われて寒い。
心臓が、凍りつきそうなほどに。
「やっだー、それありえないってー!」
唐突に周りの音が瑛を包み、彼ははっと我に返る。
かん高い笑い声。テレビから流れる壮大な音楽とけたたましい効果音。アーケードゲームの音楽。人の歩く音。遠くから聞こえる車のクラクション。おさまらない鼓動の向こうから、様々な音が彼を襲う。
目眩がした。
ふらりと足から力が抜け、倒れそうになるのを足を踏み出して堪える。縫いつけられたように動かなかった足が、今度は止まることを恐れるように歩き出す。
何かから逃げるように、徐々に早く。
どこへ向かっているのかもわからないまま、瑛は通りを走り抜けていた。人の間を抜け、何度か肩をぶつけて叱咤の声を聞いても彼は止まらなかった。
どれだけ走っただろう、通りの始まりと終わりを示す看板の下をくぐったところで、彼の足は突然止まった。足ががくがくと震え、うまく息が吸えない。
そんなに長い通りではない。距離にして百メートルもなかったはずだ。なのに、長距離を全力で走り抜けたような疲労が、全身にのしかかっている。
震える身体を宥めて、そばにあった柱に背中を預ける。目の前に駅のロータリーが広がり、向かいのビルには最近のヒットチャートやニュースを流す電光掲示板と街頭ビジョンがそびえている。休日だからか、待ち合わせらしい若者がそこら中に溢れていて、その間を俯いた背広姿のサラリーマンが縫うように歩いていく。少しはなれたところの人だかりからは軽快なギターの音と、掠れた歌声が聞こえてきた。
普段通りの駅前の様子に、瑛は安堵する。
荒い息をしながら空を仰げば、澄んだ冬の空があった。
いったい、何が起こっているというのだろうか。首をつたう汗を拭って瑛は考える。
自分の周りでおかしなことが起きている。
確かに回されたはずなのに、回されたことすらなかったことになっていた、おかしな紙切れ。あれが始まり。
暗すぎる影。
そして胡蝶の夢が、ここでまた繰り返された。
胡蝶の夢――自分が蝶になる夢を見たのか、蝶が自分になっている夢を見たのか。判然としない現実と夢。
(それに……なんの意味が、あるんだよ)
意味があったとして、なぜそれが自分に関わってくるのか。
瑛は頭を振る。
意味なんてあるわけない。胡蝶の夢の紙切れは悪戯か勘違い。影は気のせいで、先刻のは機械の故障。偶然、それ以上でも以下でもない。
(……そうだよ、何こんなに焦ってんだか)
はは、と自然に乾いた笑いがこぼれた。
口元に手をやって、氷のように冷たくなった手に驚く。
険しい表情でてのひらを見つめていたが、やがて手をコートのポケットに入れる。たいした用事もなかったからカイロを持ってこなかった。
小さく舌打ちをして、彼は電柱から背中を離し歩き出した。
歩き出そうとした。
不意に鮮やかな色が視界を掠めなければ。
「―――――……っ!」
息が止まる。
さっきまで流行の男性グループの映像を流していたそれは、鮮やかな蝶を写したまま静止している。まだ誰もそのことに気付いていない。
心臓が早鐘を打つ。
静止画の隣では、交通渋滞を告げていた文字が不意に途切れ、新しく文字が流れてくる。
『人が蝶の夢を見ているのか』
どくんと不自然に心臓が跳ねた。
「……や、めろ」
震えた声は、雑踏の音にかき消される。
寒い。
全身が寒さに凍えている。
『蝶が 君の 夢を』
その先の言葉を見る前に、瑛は弾かれるようにその場から駆けだした。
足元だけを見て、もう二度と、鮮やかな蝶の画像が入らないように。