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イノセントダーク

子どもたちは影と踊る

 prologue ---- the dawn doesn't come here.

 真っ暗な闇だった。
 所々にヒビが入った廃屋の屋上、その鉄柵の向こうに彼は立っていた。彼の他に人の姿は見られない。星すらも呑み込んだ重い暗雲が頭上を覆い、眼下には街の灯の一つすら見られない。
 まるで、世界が滅んでしまったかのような闇。
 朧気で冷たい月の明かりが、暗雲の向こうからわずかに差し込むだけ。
 彼は感情のない眼で月を見ていた。
「――……死は涼しい夜、か」
 手に持っていたダウンジャケットを握りしめる。かつてそれを着ていたのは彼ではなかった。もう着ないからと渡された。今はまだ袖を通す気にはなれない。
 生温い風が吹いて彼の髪が柔らかく揺れた。月光に透けるその細い髪は、闇の中で淡く輝いているように見えた。
 月から目をそらして、彼はうつむく。
 翳る表情に浮かぶのは、わずかな後悔か、届かない願いか。
 肺に溜まった息を絞り出すように吐き出す。それと同時に身体の力が抜けて、背後にあった鉄柵にもたれかかる。ぎしりと、小さな悲鳴が上がったが、彼は特に気にしなかった。
 錆びた鉄柵が白いシャツとこすれて、ざらついた感触がする。

「決めたんだ」

 誰に言うのでもなく、言い聞かせるように彼は静かに言った。
 唇を噛み締める。
 それは、行き場のない誓約。
 本当に誓いたい相手には決して届かない。
 それでも、誓うことしかできない。


「君を、守るよ」


 背後で身じろぐ影があった。
 彼は振り返ることなく、小さくうなずいた。
 それが合図だった。

 一歩、音もなく足を踏み出す。
 深く息を吸って、持っていたジャケットに袖を通す。煙草の匂いがした。
 ひび割れたコンクリートの向こうにあるのは漆黒の闇。
 どこまでも果てなく続くかのような、闇の淵。
 廃屋の端、ギリギリのところで彼はまっすぐに空を見上げた。雲間の間に月が見える。いくら見上げても変わることのなかった月が。
 そしてゆっくりと両腕を広げ、眠りに落ちるように穏やかに、暗い漆黒の中へと呑み込まれていった。
 哀しげに、諦めたように、それでもやさしく微笑んだまま。
 その姿は十字架に似ていた。



 それが彼の最後。
 彼の気配が消える寸前に、その後を追う影が音もなく闇の中に霧散して、この夜の世界は完全な沈黙に包まれる。
 風すら呼吸を忘れたような静寂。
 彼の去った廃屋を、暗雲の合間から姿を見せた月の光が、導くように包んでいた。



  そしてこれが、彼らのはじまり。









T 崩壊 ---- His daily life

 その日も、いつもと同じ朝だった。

 須藤(すどう)(あきら)が電車から降りると、冷たい風が体を包んで離れていった。さっきまで暖かい場所にいたせいで余計冷たく感じる。そろそろコートを用意するべきだろうか。
 寒いのは苦手だ。
 この前、ドラッグストアで安売りされていた使い捨てカイロをつい買い込んだと友人に話したら軟弱だなんだとさんざん言われた。苦手なものは苦手なんだからしょうがないだろうと瑛は思う。
 手が冷たいのはどうしてもいやなのだ。
(……そういえば、なんでだっけ)
 何か理由があったはず。
 機械的に改札を通って、定期を持った手を見つめる。さっきまでポケットに突っ込んでおいたそれは、いつもより温かい。
(確か誰かの手が冷たくて、それがいやで……)
 面影が頭に浮かぶ。なのに顔が逆光になっていてよく見えない。
 光に透ける細い髪と、華奢で脆そうに見える身体。瑛とよく似た雰囲気の、あれは――
「瑛」
 ポン、と肩をたたかれて、浮かんでいた影が霧散する。
 歩きながら振り返ると見慣れた友人が立っていた。
「……なんだ、お前か」
「悪かったな俺で」
 シャツの上にダウンジャケットを羽織り、色を抜いた短い髪と小さくて目立たないが耳に付けられたピアス。いつもの東郷(とうごう)将真(しょうま)がそこにいた。ちなみにこの彼らしさは一応どれも校則違反である。
(ていうか、人のことを軟弱とか言っておきながら、自分はずいぶん暖かそうなの着てるし)
 理不尽な。
「なにぼーっとしてるんだよ、大丈夫か?」
「え、ああ……」
 ひょいっとのぞき込んでくる眼は切れ長で、強い意志をそのまま表してたような形をしている。気弱そうに見える瑛とは正反対で、この友人は意外と整った顔立ちをしているのだ。
「そろそろ冬眠した方が良いんじゃねえの、お前」
「あー……したいなあ、冬眠」
 にやりと笑う将真にかなり本心で答えたら、だめだこりゃと肩をすくめられた。
 いいと思うんだけどなあ、冬眠。口には出さずにそう呟いて、ふと瑛は気づく。
「あれ、なんで将真がここにいるんだ? お前の家、こっちじゃないだろ?」
「俺、家帰ってねえし」
「…………」
 女か不良仲間か。これだからクラスメイトから怖いだの不良だの言われて避けられるんだ。いや、不良という点では全く正しいが。
 こんなヤツ、全然怖くないと思うけどなと、瑛は首を傾げる。確かに不良だし見た目も違反ばかりでアレだけど、よく見たら整ってる顔はどちらかというと、かの有名なアイドル集団の系統だし、笑うとガキみたいだったりするし。
「……言っとくけど、普段は普通に家に帰ってるからな」
 そんなことを眉をひそめて考えていたら、勘違いされたらしい。
「いや別に、そのことを考えてたわけじゃないんだけど」
「じゃあ何だよ」
「将真はどうしてクラスで浮くのかな、と」
 意表をつかれたらしい将真が、ぽかんとあっけにとられた表情で固まる。鳩が豆鉄砲を食ったようとはこういうことか。
 それからゆっくりと苦々しい顔つきになって吐き捨てる。
「……俺としては、クラスの奴らがお前の外面(ソトヅラ)に騙されてることの方が不思議だっての」
「ええ? 俺、外面なんてないよ?」
 嘘つけと頭をはたかれた。
 痛くはないから冗談なのはわかるが、将真は基本的に手が早い。
「そういやさ」
 ちょうど昇降口に入ったところで将真が言った。
「変な夢見たんだよ」
 夢?と瑛が首を傾げ続きを促す。
「なんかな、暗い廃ビルにいるんだよ。屋上でぼーっと立っててさ。しばらくするとお前が来んの」
「え、俺?」
「そ」
 面倒くさそうに上履きに履き替えて、言葉を続ける。
「それでお前に話しかけると、お前すごく驚いてさ」
「なんて言ったんだ?」
 少しワクワクしながら問いかけると、覚えてねえというあっさりした答えが返ってきた。
 夢の話ならそんなものか。
「とにかくお前がすごい驚いたところで目が覚めたんだけど、なーんか目覚め悪ィっつうか()な感じっつうか」
「俺に対してやましいことでもあるんじゃないの?」
 笑いながら言うと、彼は馬鹿にした顔で笑った。
「ねえよ、んなもん」
 どうだかとあからさまに肩をすくめてみせると、俺は正直な男だからなと将真が胸を張る。将真の場合、胸張って言うことじゃないと瑛が笑った。将真が瑛の頭をまたはたく。
 そうやってじゃれ合いながら、紺色の制服の中を歩いていく。
 毎日毎日、何の疑問も感慨も持たずに上る階段。汚れた廊下。当たり前の。
 穏やかな日射しが、彼らに降りそそいでいた。

   *

 はい、次。という教師の声で、瑛は解放される。
 息を吐いて席に座ると、後ろの席のクラスメイトが気怠げに立ち上がり、淡々と英文を読み上げていく。
 わりとレベルも高く真面目な学校である清陵学園ではあるが、そのうちの大半が付属の大学へ進むため授業は比較的のんびりとした空気がある。もともとレベルが高いから、授業についていくのに多少なりとも努力が必要ではあるが。
 そんな清陵の生徒らしく、瑛は真面目に授業を受けているし、必要な科目ならば予習もしておく。でないと授業中に指されて恥をかくのは自分だ。
「はい、それじゃあ訳して」
 一段落分の英文を読み上げたところで教師が言った。つい先刻瑛がやったのと同じ、いつものパターンだ。読んで訳して、間違えたところやわかりにくいところは解説して。
 クラスメイトが読み上げる訳を書き写す音がそこかしこで聞こえる。瑛も自分の訳と比べて、いくつか訂正を入れる。どこからかひそひそとした声が聞こえてきた。聞き逃した箇所を確認しあっているのだろう。いつもは私語にうるさい教師も、この時は注意をしない。
 そろそろ訳が終わるころ、トントンと細い指が瑛の机を叩いた。
「須藤君」
 隣に座っていた女子が小さな声で呼びかける。
「これ、回ってきたよ」
 そう言って机の上に置かれたのは小さな紙切れ。
「……ありがとう」
 とりあえずそれを手の中におさめて、小さな声で返す。彼女は何事もなかったかのように前を向いて、ノートにシャーペンを走らせ始めた。
「静かに。次の人、読んで」
 教師の声が響いて、また別のクラスメイトが立ち上がる。
 英文を読み上げる声を聞きながら、瑛はゆっくりと手を開いた。回された紙切れ。誰かに回してとも言われなかったから、これは瑛に宛てられたものだろう。こんなものを回す知り合いがいただろうか。
(こういうのって、女子がやることだよな……)
 クラスメイトとの仲は良いが、女子にしろ男子にしろやはり思いつかない。
 折りたたまれたそれは、丁寧に四角く切られたノートの切れ端だった。
 そこに書かれているのはたった一文。
 瑛は眉をひそめた。

  知らず周の夢に胡蝶と為れるか、
  胡蝶の夢に周と為れるか。

 少し右上がりの字で、そう綴られていた。
 書かれていたのはそれだけ。ひっくり返しても他には何もない。
(なんだよ、これ。……気味悪い)
 思わず手の中でそれを握りつぶした。くしゃ、と小さな音がする。
 気がつけば、英文を読み上げる声が、先刻とは別のクラスメイトに変わっていた。


 チャイムが鳴り響いて、誰かが号令をかける。周りより一拍遅れて動きながら、瑛は重く息を吐き出した。
 握りしめた手の中で小さな紙切れがその存在を主張している。
 あれから授業は散々だった。先に指されていて本当によかった。気が散ってまともに取れなかったノートは諦めるしかないか。誰かに写させてもらってもいいが、欠席したわけでも居眠りしていたわけでもない授業のノートを写させてもらうのは、少しばかり不自然だ。
「どうした? 変な顔して」
 何度目かのため息をついていると、将真がやって来た。
 白いシャツだけで、よく見ると下にTシャツを着ているようだ。派手なロゴが透けて見える。一応これも校則違反である。
「……これ、回したのお前じゃないよな?」
 手の中の紙切れを開いてみせる。
「はあ? なんだって俺がンなもん」
「だよな……悪い」
「別に悪かねえけど。ていうか、なんだそれ?」
 面白そうに瑛の手からノートの切れ端を奪っていく。くしゃくしゃに丸められたそれを広げて、そこに書かれた文字を読むと途端に顔色が変わった。
「……なんだこれ?」
「俺にもわからないよ。なんか回されてきてさ」
「どこから?」
 言われて、回してきた女子の机を見ると、そこにクラスメイトの姿はなかった。次は選択科目で、クラスの半分ほどが特別教室に移動する。彼女の姿を次の授業で見たことはなかったから、移動組なのだろう。
「藤岡」
 持ち主のいなくなった机を指さして瑛が言う。
「藤岡って……あのくそ真面目な女がこんなん回すか? 回しても容赦なく止められそうじゃん」
「でも回ってきたし」
 優等生で、外部の大学を狙っているらしい藤岡は、学校行事をサボって勉強するようなことはしないまでも極端に真面目だ。瑛もそのことは知っている。
「にしたって藤岡か、あいつが書いたわけじゃないにしても……」
 将真が奇妙な物を見る目で紙切れを見ている。
「ま、書いてあることはあいつらしいかもな。こんな小難しげな文章」
「古文だよな、それ」
 瑛も将真も古文の成績はあまりよろしくない。国語の時代から得意でなかった瑛に、そもそもが不真面目な将真という二人がいくら睨んでも答えは出そうにない。
「……そういや、来生(きすぎ)は文系だったか?」
 将真の口から出た言葉に、瑛の肩がぴくりと震える。
「何が言いたいんだよ」
「別に?」
 紙切れから視線を戻すと、将真はニヤニヤと笑っていた。むっとして思わず舌打ちをしそうになったとき、彼の表情がさらに喜色を浮かべた。
「――来生、どうしたんだ?」
 将真の視線が瑛を通り越して、教室の入り口を向いている。後ろの入り口のわりと近くに瑛の席はある。
「うん、ちょっと吉村さんを捜してるんだけど」
「吉村?」
 聞き返した将真に、委員会のことで話があってと彼女が続ける。
 狼狽が伝わらないようにゆっくりと振り返れば、声の通り来生七瀬(ななせ)が立っていた。柔らかな髪を後ろでまとめて耳の前に一房ずつ流している、いつもの彼女の髪型。琥珀色の大きな眼と、高すぎない整った鼻梁に小振りのふっくらとした口元。華やかではないが美少女。たぶんモテるだろう。
 瑛と違って彼女はブレザーを着ていない。暖房が効いているからだろうが、学校指定のベストと膝上のスカートにハイソックスだけでも寒そうな気配はない。将真といい来生といい、羨ましい限りだ。
「吉村なら、選択で移動したんじゃないか? 急ぐんなら地学室にいると思うぜ」
「あ、選択なんだ。ならいいや、そんなに急ぐことじゃないし。また昼休みに来るから」
 クラスメイトから一線引かれている将真に対しても、彼女は臆さずに話す。彼もそういうところが気に入っているのだろう、普段周囲には見せない表情を彼女に見せる。
 あくまでも、友人の彼女候補として。
「……どうかしたの?」
 七瀬が小首を傾げて瑛を見ている。
「え、何が?」
「なんか怖い顔してる」
 心配の色が彼女の顔に浮かんでいた。
 彼女は聡い。昔からいつもまっさきに瑛のわずかな心の揺れに気付いた。時には瑛自身が気付く前に。
「俺、そんな顔してる?」
「うん、少し強張ってるし……何かあった?」
 隣で将真が面白い見せ物を見るように二人を見ている。瑛はそれに気付いていたが、七瀬の前できつく言えるわけもなく。
「……なんか授業中に変な紙が回ってきてさ。たぶん古文だと思うんだけど、意味わからないし、回す相手も心当たりないし」
「変な紙?」
 これだよ、と将真が持っていた紙を七瀬に見せる。
 受け取って視線を落とすのと、その声はほぼ同時だった。
「これ、胡蝶の夢だよ」
「胡蝶の夢?」
 聞き慣れない単語に、瑛と将真が同じように聞き返す。
「漢文だよ。確か、荘子だったと思う」
「どんな意味なんだ?」
「えっと、この周っていうのは人の名前なんだけど、この人が蝶のなった夢を見るの。その夢がとても楽しくて本当に蝶になったような気がしたんだけど、目が覚めると自分は自分のままで……」
 七瀬が言葉を切る。
 もう一度紙に目を落として、ゆっくりと続けた。
「自分が蝶になる夢を見たのか、蝶が自分になっている夢を見たのか、私にはわからない」
 静かな七瀬の声が鼓膜を震う。
「……それが、この文?」
 七瀬が困ったような顔でうなずくと、将真が面倒そうに頭をかきながら深いため息をついた。
「ったく、ますますわけがわかんねえな」
「とにかく、あとで藤岡に誰から回されてきたか確かめてみるよ。それで直接聞けばいい」
「だな」
 七瀬の手から紙切れを受け取って、彼女に笑いかける。
「ありがとう、来生。時間、大丈夫か?」
「……あ、もうすぐ先生が来ちゃう」
「引き止めてごめんな」
 そんなことない、と苦笑しながら彼女は一歩下がる。
「それじゃあ、またね……須藤君」
 片手を振って去っていく七瀬の姿が見えなくなるまで、瑛はどこかぎこちない笑顔でそれを見送っていた。
 知らず、溜息がこぼれる。
「……お前らって、確か幼馴染みだったよな」
 自分の席に戻って次の教科書を準備していると、後ろから将真が聞いてきた。
「そうだけど、一応」
「名字で呼び合うもんなのか?」
 瑛と七瀬は小学校に上がる前からの付き合いで、まだ隣に住んでいたころは親同士の交流もあった。
 そんな七瀬と疎遠になったのは中学に上がってしばらくしてからだったか。
 瑛が引っ越して、制服を着るようになって、それぞれ離れたところでそれぞれの日常を過ごして。
 彼女と疎遠になるように、した。
「……昔は名前で呼んでたけど」 
 将真と知り合ったのは高校に入学してからだ。彼は名字で呼び合うようになった二人しか知らない。
「幼馴染みっていっても今は家も遠いし、クラスも違うし、特に接点もないから」
 教科書とノートをそろえてその上に筆箱を置く。次の選択科目では半数になって少なくなった生徒を一箇所に集めて授業をするので、席を移動しなくてはならない。運が良いことに将真は同じ席のままなので、瑛のように準備する必要はない。まったく羨ましい。
「ふうん」
 自分から話題を振ったわりには興味なさそうな返事が返ってきた。
 小さく溜息をついて鞄から財布を取り出す。なんとなく貴重品を放っておくことはできなくて、いつものように制服のポケットに入れた。
 使い込んだ財布の中に、とある映画のチケットが入っていることを、瑛はまだ誰にも言っていない。
 瑛が見ないような恋愛映画。チケットは二枚。
 いつだったか彼女が見たいと言っていた。ただ一言聞いただけなのに、前売りが販売されているのを見て、気がつけば買っていた。
「……瑛?」
 財布をポケットに入れた状態から動かない彼に、将真が怪訝そうな声をかける。
「あ、悪い」
「あの紙切れのことならそんな気にするなって、どうせくだらない悪戯とか間違いとかだろ」
 肩に手を置かれて、瑛は苦笑する。
 紙切れのことを考えていたわけではなかったが、将真の気遣いが少しだけ気分を楽にしてくれた。
 それで充分だった。

   *

 珍しくチャイムが鳴る五分前に授業が終わった。次は昼休みだ。周りのクラスメイトたちはそれぞれ晴れやかな顔をして教室を出て行く。五分前ならば授業さえ終わっていれば教室を出て行ってもいいのだ。
 次々と席を立つクラスメイトを横目に、瑛は溜息をつきながら机に倒れ臥した。
「おいおい、お前、本当に大丈夫か?」
 将真が瑛の前に立って聞く。授業中も似たような感じですぐ近くのクラスメイトからも同じように心配された。
「……なんかすごい疲れた」
「あー、まあ、あんま気にするなよ?」
 大きくて暖かい彼の手が瑛の頭を掻き乱す。されるがままになりながら、瑛は少しだけ眼を閉じた。
「しょうがねえなあ。よし、ここはバイト代が入って少しリッチな将真様が奢ってやろう」
「……ラーメン」
「馬鹿言え。唐揚げだ唐揚げ」
 学食の中でも人気があるのは四百円のラーメンと、百円で三個入りの唐揚げの二つ。特に唐揚げは弁当派の生徒の間でも人気がある。どちらもそこそこ美味しくて将真のお気に入りだ。
「それ、奢ってもらってもあんま嬉しくない……」
 おそらく一つか二つは将真の胃の中だ。
「百円を笑うものは百円に泣くぞ?」
「いや奢ってくれるっていうんなら、ありがたくもらうけど」
「なら、早く行くぞ。せっかく早く終わったんだ。たまには並ばずに買いたいっての」
 昼休みが来て上機嫌の将真にせかされて、瑛は渋々席を立つ。
 教科書一式を自分の机に置いて、さっさと教室を出て行ってしまった将真の後を追う。
(……そういや、藤岡っていつも昼休みはいないよな)
 先刻の紙切れのことを聞こうかと思っていたが、すぐに聞くのは無理そうだ。
「瑛、早くしろよ」
「わかってるって」
 すでに階段を下りている将真にせかされて、瑛は走る。
 そういえば学食に行くためには外気に晒される外廊下を通らないと行けないのだが、将真はシャツだけで寒くないんだろうか。学食の中は暖かいとはいえ寒いのはいやだなあと、瑛はぼんやり考えた。


  片思いの幼馴染み
  気の置けない友人
  単調な授業、平凡な将来

  日常は、


 結局ずるずると最後の授業まで終わってしまった。
 学食から戻ってみても案の定藤岡の姿は見当たらず、五限はそもそも移動教室で話す時間がなくて、そうこうしているうちにもうホームルームが始まってしまう。本日最後の授業が担任の教科なので、そのまま始めてしまうのだ。
「あ、あのさ、藤岡」
 意を決して話しかけると、彼女は少し驚いた顔で振り向いた。
「何?」
「リーダーでさ、紙回してくれたろ? ほら、これ」
 誰から回ってきたのかわかんなくてさ、俺宛だったんだよね? と一気に捲し立てた。胡蝶の夢が書かれた、あのノートの切れ端を見せながら。
 きょとんとしていた彼女の表情が徐々に険しくなる。
「……なんのこと?」
「え」
「授業中に紙とか回すなんてしてない。須藤君、何か勘違いしてるんじゃない?」
 息が、一瞬止まったように思えた。
 呆然と固まる瑛に、藤岡はさらに不信感をあらわにする。
「須藤君?」
 睨むように見つめられて、瑛は我に返った。
 引きつりそうな頬を動かして、無理矢理笑みを作る。
「――あ、ごめん。……俺、変な勘違いしてたみたい。ホントごめん」
 何とか笑ってみせる。
「別に謝ることじゃないから」
 そういうと前を向き直って、手帳に何かメモを取り始めた。
 それに少し遅れて、瑛も身体の向きを戻して、とにかく担任の声だけに意識を集中させた。最近授業態度が悪いことが一部で問題になってるとか、エスカレーターだからって気を抜くなとか、そんな毎日繰り返されるような話を必死になって聞いた。
 そうしていないと、全身の力が抜けて倒れ込んでしまいそうだったから。
 藤岡が嘘をつくような人間でないことは、席が隣になってからの短い期間でもよくわかる。将真じゃないが、彼女はクソがつくほど真面目だ。それにたとえ彼女だったとしても、ここで嘘をついたら怪しんでくださいと言ってるようなものだ。
 だから、彼女は渡していない(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)
 少なくとも、渡したことを覚えていない。
(なら……――――誰が)
 心臓の鼓動がうるさい。
 暖房が効いているはずなのにひどく寒く感じる。
 冷たくなるのはいやだというのに。
 力なく握り込んだ手は、氷のように冷たかった。


  日常は、
  音を立てて崩れ去る



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